一章 『カラーリング・ラン』 Ⅰ
1:自宅/鹿崎悠斗
「悠斗、起きろよ。まだ新学期が始まって二週間だってのに遅刻するつもりか?」
重たい重たい瞼をゆっくりゆっくりと持ち上げた。
まず目に入るのは、俺が小学生の頃から変わらず部屋にかけられている時計。埃をかぶった赤色の縁と、内側で白い円盤を駆ける二本の黒い棒線。時刻は七時十分。俺たち高校生にとっては起床していて当然の時間だが、そんな理屈を聞いてくれる眠気ではない。
「なぁ、なんで高校に行かないといけないんだろう」
「その手には乗らない。さっさと起きて支度をしろ」
今日も俺の幼馴染――宮島紅葉は手厳しい。寝癖をつけて布団にくるまったパジャマ姿の俺とは対照的に、紅葉はもう制服を着て登校準備は万全と言う様子だ。俺の寝ているベッドの脇に立っている。
小学校に入学するよりも前からの親友とは言え、この男の真面目さには呆れる。
「着替えるのはえーよ。まだ七時だぜ」
「もう七時だ。さらに言えば、七時十一分だけどな」
紅葉は縁の厚いメガネを指でおしあげながら大きく溜息をついた。
「仕方ないな、起きるか……」
こいつがメガネをいじりだしたら不機嫌になる前兆だ。十年以上の付き合いでそれをよく知っている俺はベッドから立ち上がった。当然、紅葉の隣に立つ形になる。
「……なんだよ」
紅葉が半目でギロリと睨んでくる。俺の考えていることを察したのだろう。
幼馴染と言えば聞こえはいいが、こういう時だけが不便だ。
宮島紅葉は背が低い。
高校二年生の平均身長を下回るだけでなく、それは自分の双子の妹とほぼ変わらないほどに。
しかも運の悪いことに、俺は一般的に見ても身長が高い方だということもある。紅葉の端正な顔立ちや長い睫も手伝って、幼馴染の三人で歩いていると俺が女子二人を侍らせていると誤解されることもあるほどだ。
これをここで口にしたら、紅葉はさらに機嫌を悪くしてしまうだろう。ここは話題を変えるのが吉だ。部屋を出て洗面所に向かう途中、紅葉の脇を通り過ぎながら俺は適当な話を振る。
「いやいや、せっかくだし朝は幼馴染の美少女に起こしにきて貰いたいものだと思ってさ」
「それが葵のことを言っているなら無駄だぞ。お前以上に寝起きが悪いから。今も、うとうとしながら朝食中だろう」
そう言いながら紅葉は床を指さす。
宮島兄妹はひとつ下の階で、ちょうど真下にあたる部屋に両親と共に住んでいる。この団地で俺と同い年というのは珍しい。その上、部屋まで近いとなれば俺たちが友人になるのは当然だったかも知れない。
宮島葵。幼馴染のことを思い浮かべた。
『葵には常識が通用しない』
いつだったか紅葉が自分の妹をそう評していた。俺は、自分が紅葉とは真逆の性格だと思っているが、彼女もまた俺とも紅葉とも全く違う人間だった。
まぁ、どちらにしても楽しい双子だから俺は大好きなわけだが。
「そんなことより五分で朝食をすませないと遅刻するぞ」
紅葉は制服の袖をまくって腕時計を確認する。紅葉が昔から好んで使っている腕時計だ。
食卓にはもう朝食が用意されていた。うちの母親が作ったものか。
母さんは昔から紅葉のことをやけに気に入ってるから、俺がすぐに起きると思って用意しておいたのだろう。
「いただきます」
いつも通りの朝食。いつも通りの会話。
俺は今朝、見た夢のことを思い出していた。
三年前にそれが最高の日々だと知らずに、あの世界を駆け抜けていたように、いつかこの日々が楽しかったことに気付くのだろうか。
少なくとも今の俺にとって、これは退屈な日常だ。
あの世界に戻れたら――俺は不用意に色の満ちた世界を見渡しながら、それでもどこか足りない『楽しい』という感情を探していた。
その日のトーストはなぜか味がしなかったけど、俺は急いで飲み込んだ。
2:中央線/宮島紅葉
「だからさ。やっぱりおかしいと思うわけよ。目玉焼きに何をかけるか問題より先に、余った卵を目玉焼きにするか、スクランブルエッグにするか、卵かけごはんにするかって、そう言うことが問題の本質なわけじゃん? そもそも何をかけようが目玉焼きは目玉焼きなわけで――」
「ああああああっ!! そう言えば去年は月見バーガー食べに行くの忘れてたかもー!! 超ショックー!!」
「いいから二人とも……少し黙っててくれ……」
今、僕たちは中央線の車内に居る。
通勤ラッシュの一番のピークは八時前後だなんて言うけれど、その理論が通用するのは関東の中でも都心から少し離れた電車だけ。中央線と山手線だけは例外だ。例外と言うか、もうこの状況は法外なレベルだ。
七時ごろから電車はすし詰め状態で、朝七時半より先の中央線上り電車なんてもう乗客に人権がないと思った方がいい。日本は少子化とかよりも先に都市部の一極化を解消させるべきだ。
閑話休題。
それよりも目の前の問題だ。
現在時刻は七時四十分。この地獄を体現したような密閉空間の中で、目玉焼きだとか月見バーガーだとかの話を始める人間が実在するなんて信じたくない。だが相手が幼馴染の鹿崎悠斗と、僕の双子の妹である宮島葵である以上、それが人間であることは間違いなかった。
とにかく。
僕としてはこんな状況で変な話をされてはたまらない。すぐに注意したわけだ。だが、それで喋るのをやめるようなら目の前のコイツは鹿崎悠斗の偽物だ。
「いやいや、紅葉。そうは言ってもこれは一種の宗教戦争みたいなもんだぜ? ほら、キノコとかたけのことかの戦争は知ってるだろ? ちなみに二人はどっちなんだよ。俺たけのこ派な」
「私もたけのこ派―!! きのこはなんかあの固いやつが、うんー……なんか固いのがあんま微妙かも」
注意をしたところで、悠斗も葵も話をやめる素振りはない。むしろさっきよりも言葉に熱が籠っているようにすら感じる。仕方がないのでここは適当に話を合わせておこう。
僕らの最寄りである吉祥寺駅から中野駅までの乗車時間はおよそ十分ほどだ。そこから乗り換えて登校するので、中野駅が目的地ではないのだが。とにかく、少しの間ならば、会話を辞めさせるよりも軽くあしらう方が正解だろう。
「僕はどちらかと言えばきのこが好きだな」
だが、返事を口にした瞬間、空気の薄い満員電車の温度がまるで数度下がったかのような感覚に襲われる。それは僕の目の前の二人が放った殺気による錯覚だ。
「へぇ、紅葉。お前そっち側の人間だったか」
「ちょ、ちょっと待て! 別にどのチョコが美味しいかなんて話はどうでもいいだろ!」
「…………どうでもいい?」
葵に半目でギロリと睨まれる。
自分と同じ顔の人間に睨まれるというのはなかなか心臓に悪い状況だった。見れば、悠斗も同じように冷たい目をしていた。
マズい。忘れていた。自由奔放な幼馴染と、天然な我が妹の共通点を。
悠斗と葵は、甘党だ。
それも、ただの甘党ではない。その熱意はもはや好感と言うより気迫に近いものを感じさせる。言うなれば、それは宗教だ。二人は甘教だ。
――どちらかと言えばってだけで、僕は別にキノコもそんな好きじゃないよ
本来ならば言い訳として口に出そうとしていた言葉を、すんでのところで飲み込む。この甘党の二人にぶつけるべき言葉はこれではない。このセリフではむしろ火に油を注ぐようなものだ。
ゴクリ、と喉を鳴らす。代わりとして用意した最善の言葉を返した。
「いや、本当はどっちも好きなんだけどね! そうだ、今日の放課後にコンビニでたけのこを買おうか?」
数秒間ほどの沈黙。
それが僕にとっては永遠に近く感じられた。
沈黙の後に顔をあげた二人の表情は――かぎりなく明るい笑顔だった。
「「昼休みで!!」」
僕は溜息を漏らす。それは安堵と呆れの両方の感情が混ざり合っていた。
僕らが通う弥生大学附属高等学校では昼休みの間に校外へ出ることが禁止されている。悠斗や葵ならともかく、自分が校則を破ることはあり得ない。
どうか、二人が満足してくれる代わりのチョコレート菓子が、校内の購買に売っていてくれることを祈る。登校途中で買ってもいいが、悠斗のせいで今日も時間ギリギリだ。
「お、着いたぜ」
そんなこんなで中央線快速のアナウンスは中野駅の名前を抑揚のない平坦な声で告げた。二人の問題児に対して唯一のツッコミ役として忙しい僕は、さっきの会話で言おうとしていたことを口にするタイミングを結局失ったのだった。
去年の秋ごろ、僕と葵と悠斗は三人で月見バーガーを食べに行っていたことを。
駅前に立つ中野サンプラザに反射した朝陽が、三人の降りたホームをきらりと照らしていた。
3:九段下駅/宮島葵
世の中の物がすべて甘くなれば良いのに。
そんなことを考えていた。
もしも、ご飯もパンもうどんもそばも全部甘くなったら、それはずいぶんと楽しい世界な気がする。
ついでに水も甘い。
歯磨き粉も甘いから、虫歯予防のついでに甘さを楽しめる。
これでは一日五回は歯磨きしてしまいそうだ。
もし、歯磨きのしすぎで歯茎から血が出ても問題ない。
だって、血も甘い世界なのだから。
「葵! 急がないと遅刻するぞ!」
高く芯の通った声に驚いて、振り向くとそこには私がいた。
いや、違う。
これは私じゃない。
私の目の前に居たのは宮島紅葉――つまり私の双子の兄だ。
いやいや、兄って言っても大した違いはないでしょって思わないこともなくもなきにしもあらずなんだけど、そんなこと言ったら弟だとしたって結局は同じことだって気もする。
だから、なんか兄っぽい感じの紅葉が兄でいいんだ。
そう言えば――
「ねぇ、なんで高校にいかないといけないんだろう」
――なんで高校にいかないといけないんだろう。
と、思った時にはもう声に出ていた。
私の場合はこういうことが結構ある。考えることと喋ることの境界があいまいなのだ。何年か前に紅葉と悠斗と三人でゲームをやっていた時は、それでよく怒られたりもしていた気がする。
私の言葉を聞いた紅葉は一瞬だけ眉を曲げて困るような表情を作った。だけど、すぐに何かを思い出したような顔をして言葉を返した。
「それは葵が高校生だからだ。高校生は高校に行くのが仕事だ」
「学生は仕事しないよ?」
「これは比喩だ、……いや、比喩と言うのも違うのかな」
「えー……じゃ、仕方ないかー」
結局どういう結論になったのかよく分からないけど、とりあえず高校には行くことにした。
私たちが通う弥生大附属高校は九段下駅からそこまで離れてはいないけれど、信号機と坂道が多いので体感的にはあまり甘くない。
紅葉の焦り方から考えて、途中でたけのこを買うことを提案しても無駄だろう。ただ登校中に甘いものを買うと言う誘惑は、簡単に諦めるには惜しい。とりあえず、悠斗に相談してみるというのが妥当なところか。
アスファルトの地面を右足で二回叩く。
ふわっとしたら、今度は左足で二回。
体がリズミカルに前へ押し出される。
スキップで前を歩く悠斗に駆け寄った。
「ねぇ、悠――」
名前は、呼べなかった。
理由は――目だ。
悠斗がどうしようもなく悲しい目をして、前を歩く男子生徒の姿を見ていた。前を歩く男子生徒は、悠斗や紅葉と同じく弥附高の制服を着ていた。
黒色の学ランを着て、スポーツ用エナメルバッグを肩から下げるその姿には見覚えがある。たしか自分たち三人と同じクラスの男子生徒で、去年は悠斗と教室で話している姿を何回か見たような――。
ここまで考えて、私は悠斗があの男子生徒に声をかけずに居る意味を察した。あの男子生徒は、悠斗と同じ部活に所属しているのだ。いや、『元』同じ部活と言うべきか。
去年度の末、つまり先月まで鹿崎悠斗はグラウンドホッケー部に所属していた。
グラウンドホッケーは怪我をすることがあるスポーツだ。怪我をすることがないスポーツなんてものが存在するのかは知らないけれど。
とにかく、去年の悠斗はグラウンドホッケー部の活動をそれなりに楽しんでいるように見えた。
『それなりに』と言うのは、別に悠斗がグラウンドホッケーをあまり好きじゃなかったと言う意味じゃない。
ただ、三年前にあのゲームをプレイしていたころの悠斗を知っているからこそ、それが彼がよく口にする『楽しさ』と言うものの最大値ではないことは明白だった。
でも悠斗は、そのグラウンドホッケー部も先月で退部した。
『別に誰かのためじゃないよ』
今月、悠斗は教室で静かにそう口にした。普段の鹿崎悠斗の荒々しいイメージからはかけ離れた重い鉛のような言葉だった。
固くて冷たくて、そして――――甘くない言葉だ。
それは彼の退部の理由について、元チームメイトの男子生徒に問いただされた時の返事だったはずだ。
『罪悪感とか、そう言うので俺は退部したんじゃないんだ。ただ……俺が楽しくないんだ。どうしてもさ。だから皆には悪いとは思っているけど、もう俺はホッケーはやらない』
私は目の前で歩く鹿崎悠斗に意識を戻す。
何があったのか詳しくは知らないが、とにかく彼にとって辛いことだったのだろう。
ならば、彼に今必要なものはたった一つだ。
「……うわッ!? 葵か!? 急に後ろから抱き着くなよ、危ねーな!」
「えへへ。ところで悠斗、そこらへんのコンビニでたけのこでも買っていかない?」
私を見る驚いた顔に、わずかな間をあけてニヤリと言う笑みが浮かんだ。
「……それはいい考えだな。そこのセブンに寄っていくか」
「うん!」
「おい、二人とも何して……って、なんでコンビニに入ってるんだよ!! 授業に遅刻するぞ!!!!」
紅葉の叫び声は日常生活のBGMだ。
私は鼻歌を響かせながらコンビニの自動ドアをくぐり抜けた。歌詞も曲名も忘れたが、なんだか楽しい感じの歌だ。
困ったことがあったら、とりあえず甘いものに限る。
甘くない世界で、甘いものだけはいつだって私たちの味方だ。




