第九話 迎える夜
聞かなければならないことがある。
そのことだけは、もう分かっていた。
それでも、目の前に現れた藤崎さんがいつもと変わらない声で「こんばんは」と言い、その腕に抱かれたとき、真由は問いよりも先に、その温もりへ縋ってしまう。
真実を知りたい気持ちと、今までの幸せを失いたくない気持ちは、いつも同じ方向を向いているとは限らないのだと思います。
スーパーを出た頃には空はすっかり夕方の色へ変わっていて、私は買い物袋を提げたまま足早にマンションへ戻ったのだけれど、玄関の鍵を開けて部屋へ入ったあとも気持ちはどこか落ち着かないままで、冷蔵庫へ買ってきた野菜をしまいながら何度も時計へ目を向けてしまう自分に気付いていた。
鶏もも肉をまな板の上へ広げ、フォークで何度も穴を開ける。
柔らかな肉へ先端が沈み込むたびに小さな音がして、その単調な作業に意識を向けていれば余計なことを考えずに済むような気がしたのだけれど、実際にはそんなことはなくて、手だけが勝手に動いている間も頭の片隅では別のことばかりを考えていた。
ボウルへ移した鶏肉に酒と醤油を回しかける。すりおろしたニンニクを加えて揉み込みながら、私は今日になっても結局何ひとつ答えを出せていないことを思い出していて、あの日から問いを胸に抱えたまま、結局今日まで何も言えずにいた。
本当なら距離を置かなければならないことも全部分かっているのに、私自身はもう、藤崎さんを迎えることを前提に動いてしまっていた。
冷蔵庫の奥には缶ビールが冷えていた。
もし本当に会いたくないのなら、断ることだってできたはずだったし、今日は疲れているとか予定があるとか、いくらでも理由は見つけられたはずだった。なのに私はそのどれも選ばないまま、酒と醤油をまとった鶏肉を指先で揉み込み続けていた。
その湿った感触が妙に生々しく感じられるたびに、自分が今夜も藤崎さんを迎えるのだということだけが、静かに胸へ押し寄せてきた。
その時、不意に玄関のチャイムが鳴った。
私は反射的に顔を上げた。
そこにいるのが誰なのか、確かめるまでもなかった。
慌てて手を洗い、水滴をエプロンで拭いながら玄関へ向かい、深く息を吸ってからドアノブへ手を掛ける。
扉を開くと、そこには仕事帰りの藤崎さんが立っていた。
「こんばんは」
いつもと変わらない穏やかな声だった。
それだけで胸の奥に張り詰めていたものが音もなく緩み、私は返事をすることも忘れたまま彼を見つめていた。
「どうした?」
少し不思議そうに笑いながらそう尋ねられた瞬間、それまで胸の奥へ押し込めていた不安や迷いが堰を切ったように溢れ出し、私は何も考えられないまま一歩踏み出すと、そのまま藤崎さんの胸へ額を預けるように抱きついた。
彼は一瞬だけ驚いたように息を呑んだものの、すぐに私の背中へ静かに手を回し、何も尋ねることなく抱き寄せてくれた。
その腕の温もりに包まれた途端、ここ数日胸の奥へ押し込み続けてきた不安が、ゆっくりとほどけていくようだった。私は目を閉じたまま彼の背中へそっと腕を回し、そのまま離れたくないという思いだけを静かに込めた。
この人に聞かなければならないことがある。
そのことは抱きしめられている今も変わらず胸の奥にあった。
けれど、その問いを口にしてしまえば、この温もりまで失ってしまうのではないかという恐れが先に立ち、私は何も言えないまま、あと少しだけこのままでいたいと願ってしまっていた。
この場面を書きながら、真由はもう答えを知りたいだけではないのだと思いました。
本当なら、聞かなければならない。
距離を置かなければならない。
そう分かっているのに、藤崎さんに抱きしめられると、その決意が簡単に揺らいでしまう。
人を疑うということは、その人が自分に与えてくれた優しさまで疑うことなのかもしれません。
そして、五年間も好きだった相手なら、その優しさを全部嘘だったことにはしたくないのだと思います。
真由がこのあと何を尋ねるのか、私自身も少し緊張しながら書いています。
もし何か感じていただけましたら、率直なご感想やリアクションなどいただければ幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




