第十話 もう少しだけ
食べ終えた茶碗は、そのままテーブルの上に残されていた。
たった二人分の食器を片付けて洗うだけなのに、時間が惜しかった。
水を流す音を聞けば、今日という夜が少しずつ終わってしまう気がした。シンクへ向かい、背中を向けてしまえば、きっと私は思い出す。
この人と過ごしてきた五年間も、何気ない夕食を囲んだ夜も、笑い合った時間も、何も知らないまま幸せだと信じていた自分さえも、真実を知ってしまえば二度と取り戻せないような気がして、私はその思いを振り払うように、そっと藤崎さんの背中へ腕を回した。
「……やだ」
自分でも驚くほど小さくこぼれた声は、彼を引き留めたいという願いではなく、この夜だけは終わらせたくない、このまま何も知らずにいさせてほしいという、あまりにも身勝手で弱い祈りのようだった。
「まだ、やめないで」
彼を感じるたび、胸の奥へ澱のように積もっていた寂しさは静かに溶けていき、その熱と甘い陶酔だけが私を現実から遠ざけ、答えを求めなければならないことさえ忘れさせてしまうものだから、私はその束の間の静けさへ少しでも長く身を委ねていたかった。
気が付けば息をすることさえ苦しく、頬を伝う涙はもう止めようがなかった。
藤崎さんはそんな私を静かに抱き寄せ、少しだけ笑いを含んだ声で言った。
「今日の真由、すごくエロい」
きっと、この人は気づいていない。
私が求めているのは優しさではなく、答えを先送りにできる時間なのだということに。
時計の針だけが、変わらず時を刻んでいた。
すべてが終わっても、私は言葉を発することができなかった。
涙を拭うことさえ忘れたまま俯いていると、藤崎さんは私の髪をそっと撫で、何事もなかったような穏やかな手つきで肩へ触れた。
「どうした?」
その一言が胸の奥へ静かに落ちていく。
本当なら、今ここで聞かなければならなかった。
佐伯主任から聞かされたことも、この数日、眠れないまま考え続けてきたことも、全部この人へぶつけなければならなかったはずなのに、その温もりへ触れてしまうと、そんな問いさえどうでもよくなってしまうほど、私はただ藤崎さんを求めてしまっていた。
「……何でもない」
掠れた声でそう答えたものの、うまく笑うことはできなかった。
「藤崎さん、大好きなんです」
ようやくそれだけを口にすると、胸の奥へ押し込めていたものがまた静かに沈んでいき、聞かなければならなかった言葉は、とうとうひとつも形にならなかった。
藤崎さんは何も言わずに私を抱き寄せ、そのまま髪をひと撫でした。
「うん」
返ってきたのは、それだけだった。
私はもう一度だけ彼の胸へ顔を埋め、小さな声で言った。
「……もう少しだけ」
藤崎さんは困ったように笑って、私の肩を軽く叩いた。
「今日のそんなに良かったの?」
そう言うと、ベッドを静かに抜け出し、無造作にシャツを羽織る。
「一本だけ吸ってくる」
短くそう言い残して、換気扇の下へ歩いていった。
部屋にはライターを弾く乾いた音が小さく響き、やがて換気扇の回る音に紛れるように煙草へ火が移る微かな音が聞こえた。
甘く焦げた煙の匂いが、ゆっくりと部屋へ広がっていく。その匂いはいつの頃からか煙草ではなく、藤崎さんその人を思い出させるものになっていて、私は換気扇の下に立つ背中を見つめながら、小さく息を吸い込んだ。
煙は換気扇へ吸い込まれながら細く揺れ、それでも部屋にはわずかに残り続けていて、私はその残り香さえ愛おしいと思ってしまう自分から、どうしても逃げることができなかった。
食べ終えた茶碗は、そのままテーブルの上に残されていた。
たった二人分の食器を片付けて洗うだけなのに、時間が惜しかった。
水を流す音を聞けば、今日という夜が少しずつ終わってしまう気がした。シンクへ向かい、背中を向けてしまえば、きっと私は思い出す。
この人と過ごしてきた五年間も、何気ない夕食を囲んだ夜も、笑い合った時間も、何も知らないまま幸せだと信じていた自分さえも、真実を知ってしまえば二度と取り戻せないような気がして、私はその思いを振り払うように、そっと藤崎さんの背中へ腕を回した。
「……やだ」
自分でも驚くほど小さくこぼれた声は、彼を引き留めたいという願いではなく、この夜だけは終わらせたくない、このまま何も知らずにいさせてほしいという、あまりにも身勝手で弱い祈りのようだった。
「まだ、やめないで」
彼を感じるたび、胸の奥へ澱のように積もっていた寂しさは静かに溶けていき、その熱と甘い陶酔だけが私を現実から遠ざけ、答えを求めなければならないことさえ忘れさせてしまうものだから、私はその束の間の静けさへ少しでも長く身を委ねていたかった。
気が付けば息をすることさえ苦しく、頬を伝う涙はもう止めようがなかった。
藤崎さんはそんな私を静かに抱き寄せ、少しだけ笑いを含んだ声で言った。
「今日の真由、すごくエロい」
きっと、この人は気づいていない。
私が求めているのは優しさではなく、答えを先送りにできる時間なのだということに。
時計の針だけが、変わらず時を刻んでいた。
すべてが終わっても、私は言葉を発することができなかった。
涙を拭うことさえ忘れたまま俯いていると、藤崎さんは私の髪をそっと撫で、何事もなかったような穏やかな手つきで肩へ触れた。
「どうした?」
その一言が胸の奥へ静かに落ちていく。
本当なら、今ここで聞かなければならなかった。
佐伯主任から聞かされたことも、この数日、眠れないまま考え続けてきたことも、全部この人へぶつけなければならなかったはずなのに、その温もりへ触れてしまうと、そんな問いさえどうでもよくなってしまうほど、私はただ藤崎さんを求めてしまっていた。
「……何でもない」
掠れた声でそう答えたものの、うまく笑うことはできなかった。
「藤崎さん、大好きなんです」
ようやくそれだけを口にすると、胸の奥へ押し込めていたものがまた静かに沈んでいき、聞かなければならなかった言葉は、とうとうひとつも形にならなかった。
藤崎さんは何も言わずに私を抱き寄せ、そのまま髪をひと撫でした。
「うん」
返ってきたのは、それだけだった。
私はもう一度だけ彼の胸へ顔を埋め、小さな声で言った。
「……もう少しだけ」
藤崎さんは困ったように笑って、私の肩を軽く叩いた。
「今日のそんなに良かったの?」
そう言うと、ベッドを静かに抜け出し、無造作にシャツを羽織る。
「一本だけ吸ってくる」
短くそう言い残して、換気扇の下へ歩いていった。
部屋にはライターを弾く乾いた音が小さく響き、やがて換気扇の回る音に紛れるように煙草へ火が移る微かな音が聞こえた。
甘く焦げた煙の匂いが、ゆっくりと部屋へ広がっていく。その匂いはいつの頃からか煙草ではなく、藤崎さんその人を思い出させるものになっていて、私は換気扇の下に立つ背中を見つめながら、小さく息を吸い込んだ。
煙は換気扇へ吸い込まれながら細く揺れ、それでも部屋にはわずかに残り続けていて、私はその残り香さえ愛おしいと思ってしまう自分から、どうしても逃げることができなかった。
この場面では、真由が最後まで「結婚しているのか」と尋ねられないまま、藤崎さんとの時間に身を委ねています。
もちろん、それだけで真由が弱いと言い切れるものではないと思っています。
五年間好きだった人を目の前にして、その人から離れることも、疑うことも、すぐにはできない。
まして、これまで受け取ってきた優しさまで全部嘘だったことにはしたくない。
けれど、真由自身も少しずつ分かり始めています。
自分は真実を知らないのではなく、真実を知ることを先送りしているのだ、と。
「知らなかった」と「知ろうとしなかった」の間には、思っている以上に曖昧な境目があるのかもしれません。
この先、真由がその境目とどう向き合っていくのか、私自身も考えながら書いています。
もし何か感じていただけましたら、率直なご感想やリアクションなどいただければ幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




