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錯認の果て──不倫だと知らずに恋をした、私の物語。  作者: 髙山あきら


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第十一話 また来るから

朝になれば聞こう。

そう思っていたはずなのに、また何も聞けないまま、藤崎さんを見送ってしまった。


大切なことほど、目の前にある幸せを壊すのが怖くて、後回しにしてしまうことがあります。

けれど、目を背けているあいだにも、時間は静かに進んでいく。


そしてこの朝、真由は思いがけないことに気づきます。

 朝になれば何を聞こう。そう思いながら眠りについたはずなのに、目を覚ますと隣には藤崎さんがいて、その穏やかな寝息を聞いているだけで胸の奥に渦巻いていた不安は少しずつ遠ざかってしまうものだから、私はまた何も言えないまま金曜日の朝を迎えていた。


 卵とベーコンを焼き、二人分の朝食を用意して向かい合う。昨夜の続きを話すでもなく、他愛もないことばかりを言い合いながら食パンを口へ運ぶ。その当たり前の時間は、終わることを考えたくなかった。


 部屋を出れば自然と歩幅を合わせ、駅までの道を並んで歩いた。


 話すことといえば仕事のことばかりだった。今年度営業へ配属された新人の男性社員が見積書を送り忘れて取引先へ謝りに行った話や、派遣で来た女性が電話対応に慣れず苦労している話をしていると、藤崎さんは「最初は誰でもそんなもんだよ」と笑い、私もつられて笑った。


 それでも、すぐ隣に藤崎さんがいて、仕事の愚痴や他愛もない話を交わしながら駅まで歩く、その時間だけは何ものにも代え難かった。

 職場の最寄り駅へ着くと、私たちは示し合わせることもなく歩く速さを緩め、少しだけ間隔を空けたまま敷地へ向かった。


 職員用の入口が見えてくる頃には、もう隣に並んではいなかった。

 さっきまで隣を歩いていた人は、そこでは私の恋人ではなく、いつもと変わらない職場の上司だった。


 会社では、ただの上司と部下だった。

 

 以前ほど仕事で直接関わることはなくなっていたけれど、廊下ですれ違うたび、私は無意識のうちにその背中を目で追い、姿が見えなくなるまで視線を戻せなくなっていた。

 

 金曜日が終わる頃には、今夜も藤崎さんが来るということだけを何度も思い返しながら仕事をしていた。


 その夜も、私たちは何事もなかったように夕食を囲み、テレビを眺め、やがていつものように同じベッドで眠った。そんなありふれた時間を過ごしていると、佐伯主任から聞かされた言葉は少しずつ輪郭を失い、私はまた、今夜だけは考えなくてもいいのだと自分へ言い聞かせていた。


 カーテンの隙間から柔らかな朝の光が差し込み、藤崎さんは慣れた手つきでシャツの袖へ腕を通し、ゆっくりと帰る支度を始めていた。

 

 時計だけが静かに時を刻んでいた。

 だから急ぐ理由もないはずなのに、その背中を見ているだけで、また二人だけの時間が終わってしまうのだという思いが胸の奥に満ちていき、私は何も言えないまま玄関まで見送り、靴を履こうとする藤崎さんの背中へ、衝動に押されるようにそっと抱きついた。

 

 もう少しだけ、あと十分でもいい、その十分があれば何かが変わるわけではないことも、この人はいずれ部屋を出て行くことも分かっていたのに、それでも今だけは時間の流れが止まってほしくて、私は背中へ回した腕にほんの少しだけ力を込めながら、本当は「行かないで」と言いたかったし、この部屋を出たあと、今からどこへ帰るのか、本当に帰る場所は私の知らない家なのか、その答えを聞かなければならなかったはずなのに、そのどの言葉も口にした瞬間、この穏やかな朝まで壊れてしまうような気がして、私は唇を噛み締めたまま、ただ黙って彼の背中へ額を預け続けていた。

 

 必死に堪えていると、藤崎さんは私の前へしゃがみ込み、そっと額へ口づけた。

「また来るから」

 その一言だけを残して立ち上がる。


「うん」

 それしか言えなかった。

 玄関の扉が閉まる音だけが響き、そのあとには深い静寂だけが残った。


 さっきまでそこにいたはずの藤崎さんの姿はもうないのに、部屋にはまだ甘く焦げた煙草の匂いだけがかすかに残っていて、その残り香だけが、この部屋にはほんの少し前まで確かに藤崎さんがいたことを伝えていた。

 私は吸い寄せられるようにベッドへ腰を下ろし、さっきまで藤崎さんが横になっていた場所へそっと身体を預ける。


 シーツにはまだわずかに体温が残っているような気がして、私は目を閉じ、その温もりが消えてしまわないことだけを願いながら、頬を枕へ埋めた。

 最近、理由もなく涙がこぼれそうになったり、小さなことで胸が締め付けられたりすることが増えていた。


 疲れているだけ。

 そう思うことにしていた。


 けれど、顔を洗おうと洗面所へ向かい、水で頬を濡らして何気なく顔を上げた時、不意に壁へ掛けられたカレンダーが目に入り、私はそのまま視線を動かせなくなった。


 私は指先でカレンダーの日付をゆっくりとなぞりながら、最後はいつだっただろうと記憶を手繰り寄せ、最初は自分の思い違いだと思ってもう一度最初から数え直してみた。何度数えても答えは変わることがなく、その瞬間、それまで考えないようにしていた可能性だけが、不意に目の前へ姿を現した。

この話では、真由が「藤崎さんに何を聞くのか」だけではなく、自分自身の身体に起きていることへ、ようやく目を向け始めます。


結婚しているのかと尋ねることもできないまま、また「また来るから」という言葉を信じて見送ってしまう。

その一方で、時間は真由の都合を待ってはくれません。


これまで真由は、見たくないものを見ないことで、藤崎さんとの日常を守ろうとしてきました。

けれど、自分の身体に起きている変化まで、同じように見ないふりをすることはできるのでしょうか。


ここから真由の置かれている状況が、少しずつ変わっていきます。


この先をどのように受け取っていただけるのか、少し不安に思いながら書いています。

もし何か感じていただけましたら、率直なご感想やリアクションなどいただければ幸いです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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