第十二話 白黒の世界
目を背けているあいだにも、時間は進んでいきます。
藤崎さんに聞かなければならないことも、自分が見ないようにしてきたことも、まだ何一つ片付いていない。
そんな中で、真由は自分の身体に起きていた変化を知ることになります。
それは、これまで先送りにしてきたものを、もう先送りにはできなくする出来事でした。
月曜日は、午後から体調が悪いと早退していた。
病院を出ると、午後の陽射しが歩道を白く照らしていて、何人もの人が信号を渡り、車はいつも通り交差点を曲がっていく。その景色だけが何事もなかったように流れていた。
信号は何度も青に変わった。けれど、私は横断歩道の手前から動くことができなかった。
待合室で聞こえていた赤ちゃんの泣き声は病院を出た今も耳の奥にかすかに残っていて、その声を思い出すたび、さっき診察室で医師から告げられた言葉が、何度も胸の中で静かに繰り返される。
――八週ですね。
土曜日の夕方、薬局で買った妊娠検査薬には青い線が二本並んでいて、それを見つけてもなお何かの間違いだと思いたくて、説明書を何度も読み返し、「疲れているだけだ」「最近眠れていないからだ」と自分に言い聞かせ続けていた。
モニターには白黒の小さな影が映っていて、医師の声だけが妙にはっきりと耳へ残った。
どうやって駅前まで歩いたのか、よく覚えていない。気がつくと、私は駅前のベンチへ腰を下ろし、膝の上にはエコー写真が広げられていた。
白黒の世界を見つめながら、その端を指先でそっとなぞった。
彼が望むまま、私たちは避妊をしなかった。
藤崎さんに抱き締められている間だけは、何も考えなくて済んだ。胸の奥へ澱のように積もっていた不安も、言葉にできない寂しさも、その腕の中にいる間だけは輪郭を失い、問いを口にするよりもその温もりへ身を委ねることを選ぶようになっていた。
ほんの少し前の私なら、迷うことなく連絡していただろう。
この小さな命を彼と一緒に喜び、これから先の時間を何の疑いもなく思い描きながら、お腹の中で育っていく日々を、穏やかな未来として待ち望んでいただろう。
「彼、結婚してるの知ってるの?」――その一言だけが、どうしても頭から離れなかった。その事実を知ってしまった今、この子のことを、私はどんな顔をして藤崎さんへ伝えればいいのだろう。
喜んでくれるのか、それとも。
この小さな命は、あの人にとって何を意味するのだろう。考えれば考えるほど答えは遠ざかり、私には藤崎さんへ連絡する勇気さえ残っていなかった。
不意に、スマートフォンが小さく震えた。
画面には、大久保君の名前が表示されていた。
『今日、ご飯でも食べに行かない?』
その文字を見た瞬間、連絡すると言ったまま、何も返せていなかったことを思い出した。
もう一件、通知が届いていた。
藤崎さんからだった。
『早退したんだって? 大丈夫?』
診察室で聞いた「八週ですね」という言葉も、バッグの中にしまったエコー写真も、そのどちらも今の私にはどう伝えればいいのか分からなかった。
「大丈夫」とだけ返して、この話をやり過ごすことはできなかった。
私は画面を閉じ、もう一度大久保君とのトーク画面を開く。
『いいよ』
短く打ち込んで送信した。
このまま一人で部屋へ帰れば、また同じ問いを繰り返すだけだった。
今はただ、一人になりたくなかった。
この話では、真由が妊娠を知ります。
本来なら、好きな人との間に生まれた命を知った瞬間、喜びや期待が先に来てもおかしくないのだと思います。
けれど真由には、その前にどうしても考えなければならないことがありました。
藤崎さんには家族がいる。
自分はそのことを知らなかった。
そして、その人との間に新しい命が宿っている。
「知らなかった」だけでは、もう済まされないところまで来てしまったのだと思います。
それでも真由は、すぐに答えを出すことができません。
藤崎さんへ伝えることもできず、ひとりで部屋へ帰ることもできず、ただ誰かと一緒にいたいと思って大久保君へ連絡する。
ここから、真由を取り巻く状況は少しずつ変わっていきます。
この先の展開をどのように受け取っていただけるのか、少し不安に思いながら書いています。
もし何か感じていただけましたら、率直なご感想やリアクションなどいただければ幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




