第十三話 帰れない場所
久しぶりに訪れた母校の駅で、真由は学生だった頃の記憶と再会します。
子どもたちのために誰かと一緒に汗を流し、地域の人たちに支えられながら過ごした時間。
その頃の真由は、今よりずっと自分のことを信じていたのかもしれません。
けれど、過去の自分と今の自分を比べたとき、真由の胸に浮かんだのは懐かしさだけではありませんでした。
送信ボタンを押して間もなく、スマートフォンが小さく震えた。
『今、学園前駅にいるよ』
二駅先だった。
母校、青葉大学の最寄り駅。
『そっちへ行くね』
そう返すと、『分かった。改札で待ってる』と、すぐに返信が届いた。
私はエコー写真を手帳の間へそっと挟み、バッグへしまい、ゆっくりとベンチを立ち上がった。
学園前駅は、いつでも行ける場所だった。それなのに、そのホームへ降り立つのは卒業以来だった。
改札を出ると、大久保君が私に気づいて穏やかに右手を上げ、その左手には大きなエコバッグが提げられ、右腕には五キロほどはありそうな米袋が抱えられていた。その姿は仕事帰りというより、夕飯の買い出しを終えて家路につく人のようだった。
「どうしたの? その荷物」
思わず尋ねると、大久保君は米袋を抱え直しながら少し照れくさそうに笑い、「子ども食堂に持っていくんだ」と何気ない口調で答え、その一言を聞いた瞬間、大学時代にボランティアサークルの仲間たちと立ち上げた子ども食堂のことを思い出した。
私たちが入学する前まで、子ども食堂は町の公民館を借りて週に一度開かれるだけの小さな活動だった。「いつか毎日、子どもたちが当たり前に来られる場所にしたい」と願った当時の部長は地域へ何度も足を運び、断られても翌週にはまた同じ家の玄関を叩き、自治会長や商店街の人たちへ頭を下げ続けていたという。その思いはやがて町の人たちへ伝わり始め、ちょうどその頃、入学した私と大久保君も、その輪へ引き寄せられるようにサークルへ入ったのだった。
活動の転機になったのは、当時自治会長を務めていた白川さんが、「使っていない家があるから、よかったら使いなさい」と先代から受け継いだ古い平屋を無償で貸してくれたことだった。
畳は擦り切れ、雨漏りの跡も残るような家だったけれど、私たちは講義が終わるたびに集まり、壁を塗り替え、机を運び込み、地域の人たちに教わりながら少しずつ手を入れていった。その家は、誰か一人が作った場所ではなく、学生と地域の人たちが何度も汗を流しながら育ててきた場所だった。
白川さんは家を貸してくれただけではなかった。
忙しい日はいつの間にか台所へ立って大鍋いっぱいのカレーや豚汁を作ってくれて、私たちが子どもたちの相手に追われている間も、「こっちは任せなさい」と笑いながら鍋をかき混ぜていた。
気づけば学生たちは誰からともなく白川さんを「お母さん」と呼ぶようになり、その呼び名を本人も少し照れくさそうに笑って受け入れていて、あの家は子どもたちだけではなく、私たちにとっても帰って来られる場所になっていた。
やがて活動は青葉大学のボランティアサークルだけでは支えきれなくなり、近隣の大学にも声をかけて合同で運営するようになると、協力の輪はいっそう広がっていき、地元企業からも食材や運営費が届くようになった。
そうして子ども食堂は、週に一度の催しではなく、地域の子どもたちが当たり前のように「ただいま」と帰って来られる居場所として根づいていき、講義が終われば自然とその家へ向かい、子どもたちと宿題をしたり、一緒に夕飯を囲んだりする毎日が、いつしか私の学生生活の中心になっていた。
「まだ子ども食堂、続けてたんだ」
「うん。行ける時だけだけどね」
大久保君は少し照れくさそうに笑うと、米袋を抱え直した。
「持つよ」
私はそう言って、大久保君の左手に提げられていたエコバッグへ手を伸ばした。
「ありがとう」
短く礼を言う大久保君の隣へ並び、私はそのまま歩き始めた。
しばらく他愛もない話をしながら歩いていると、大久保君が前を向いたまま、不意に思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、白川さんが何度か梶原さんに会いたいって言ってたんだ」
「私に?」
思わず歩調が緩んだ。大久保君は前を向いたまま、小さく頷いた。
「うん。『梶原さんは元気にしてるのかな』って会うたびに聞かれてさ。今度みんなで集まることがあったら、ぜひ顔を見せてほしいって言ってた」
私は足元へ視線を落とした。
卒業してから一度も顔を出していなかった。それでも、私のことを覚えていてくれた人がいた。
本当なら、社会人になった自分の姿を見せたかった。仕事にも慣れ、「元気にやっています」と笑って報告できるものだと、どこかで思っていた。
けれど、今の私は胸を張って会いに行ける私ではなかった。
知らなかったとはいえ、結婚している人を愛し、その人の子どもを身ごもってしまった自分を、白川さんはどんな目で見るのだろう。そう思うと、その人の前へ立つ資格さえ失ってしまったような気がして、私は何も言えないまま歩き続けた。
エコバッグの持ち手だけが、手のひらへ静かに食い込んでいた。
この話では、大久保君との再会と、学生時代の子ども食堂の思い出を書きました。
白川さんや子どもたちと過ごした時間は、真由にとって大切な思い出です。
誰かのために動くことが自然で、周りの人たちに支えてもらいながら、自分も誰かの役に立てていると思えた頃の時間でした。
だからこそ、今の自分を振り返ったとき、真由は「白川さんに会う資格がない」とまで思ってしまう。
でも、私はこの感情を、そのまま真由自身の価値だとは考えていません。
知らなかったことと、悪い人間であることは同じではないからです。
ただ、本人がそう思ってしまうほど、今の真由は自分自身を責めています。
ここから大久保君や白川さんとの関わりが、真由にどんな影響を与えていくのか。
そのあたりも含めて、読んでいただけたらと思います。
もし何か感じていただけましたら、率直なご感想やリアクションなどいただければ幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




