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錯認の果て──不倫だと知らずに恋をした、私の物語。  作者: 髙山あきら


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第七話 いいですよ

本当は、聞かなければならなかった。


答えを知るために必要なのは、たった一つの問いだけだったのに、その問いを口にすることができない。


真実を知りたいと思いながら、同時に、知らないままでいられる最後の時間を手放したくない。

そんな矛盾した気持ちの中で、真由はもう一度、藤崎さんと会うことを選びます。

 聞かなければならなかった。


 佐伯主任からあの話を聞かされた日から、その考えだけは胸の奥に沈んだまま動かず、このまま何も確かめないまま時間だけが過ぎていけば、今よりもっと切り出しづらくなってしまうことも分かっていたのだけれど、それでも私は何も聞けないまま数日を過ごしていて、仕事をしている時も、帰宅して一人で食事をしている時も、夜になって部屋の灯りを落としたあとも、意識の底には同じ問いが静かに残り続けていた。


 藤崎さんは本当に結婚しているのだろうか。


 答えを知る方法は難しくなかった。


 会った時に一言尋ねれば済む話だったし、本当に知りたいのなら避けてはいけない問いなのだということも分かっていた。


 けれど、その言葉を口にした瞬間、それまで私が信じてきたものの輪郭が変わってしまうような気がして、私は最後の一歩だけを踏み出せずにいた。


 同じ課にいる以上、藤崎さんの姿は毎日視界のどこかにあった。


 電話を取る声が聞こえることもあれば、書類を抱えて席を立つ姿が目に入ることもあり、以前なら何でもないことで交わしていた言葉も確かに存在していたはずなのだけれど、係が分かれてからは仕事で直接関わる機会もほとんどなくなっていて、その距離は決して遠くないはずなのに、以前とは違う場所に立っている人を眺めているような感覚だけが残されていた。


 木曜日の午後だった。


 私はデスクで資料を開いていたのだけれど、視線が追っている文字はほとんど頭に入ってこず、気が付けば何度も机の上のスマートフォンへ目を向けていて、連絡が来る理由などどこにもないにもかかわらず、もし今日連絡が来たらどうするのだろうという考えだけが仕事の合間を縫うように何度も意識の中へ戻ってきていたものだから、不意にスマートフォンが震えた時には、自分でも驚くほど強く心臓が跳ねた。


 画面には藤崎さんの名前が表示されていて、私はすぐには通知を開くことができないまま、その文字をしばらく見つめていたのだけれど、数日前までなら何のためらいもなく触れていたはずの名前が、今はなぜだか遠い場所にあるもののように思えて、画面の上で止まった指先だけが時間を置き去りにしたように動かなかった。

 ようやく通知を開く。


 『今日行ってもいい?明日も一緒に行こうか』


 私はその一文を見つめていたのだけれど、そこに書かれているのが今夜の約束だけではなく、明日の予定まで何のためらいもなく続いていることに気付いた瞬間、ほんの数日前までなら当たり前のように受け取っていたはずの言葉が急に別の意味を帯び始めたような気がして、視線を逸らすことができなくなった。


 明日のことまで当然のように書かれているその文章の向こうには、これまで私が疑うことなく受け取ってきた日常がそのまま続いていて、それは本来なら安心できるはずの光景だったのに、今はなぜだか胸の奥を静かに締め付けるものになっていた。


 断る理由ならいくらでも思い付いた。


 疲れていると言うこともできるし、今日は一人で過ごしたいと返すこともできる。

 少し距離を置きたいと伝えることだってできたはずだった。

 けれど、そのどれも文字にはならなかった。


 返信欄のカーソルだけが静かに点滅を続けていた。


 もし今夜会ったとしても、結局何も聞けないのかもしれない。

 問いは残ったままだろうし、帰る頃には今日も聞けなかったと思いながら見送ることになるのかもしれなかった。

 それでも、藤崎さんが部屋にいて、いつもの声で名前を呼び、何事もなかったように隣へ座る光景を思い浮かべると、ここ数日ずっと胸の内側で張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。

 仕事を終えて一人で部屋へ帰り、夕食を済ませ、灯りを消したあとも眠れないまま同じことを考え続けている自分の姿は簡単に想像できたし、その長い夜をもう一度過ごすことを思うと、返信欄を閉じることができなかった。

 私は画面を見つめていた。


 断るための言葉ではなく、会わなかった夜の方ばかりが頭に浮かんでいた。


『いいですよ』

 そう打ち込み、送信ボタンを押したあとも私はすぐには画面を閉じることができず、表示されたままの短い文字列を眺めていた。それからふと、帰りにスーパーへ寄らなければならなかったことを思い出した。

 冷蔵庫に何が残っていただろう。

 肉はあっただろうか、それとも何か買い足した方がよかっただろうかと考え始めている自分に気付いた時、思わず小さく息を吐いた。


 窓の外では夕方の光が少しずつ色を変え始めていた。


この話を書きながら、真由はもう「何も知らなかった」わけではないのだと思いました。


佐伯主任から聞いたことを疑い始め、これまでの出来事を一つずつ思い返し、藤崎さんに聞かなければならないことも分かっている。

それでも、聞くことができない。


真実を知ることは、同時に、今までの自分には戻れなくなることでもあるからです。


「結婚しているのですか」と聞けば済む。

それなのに、その一言を送れないまま、私はまた藤崎さんを部屋へ迎えることを選んでしまう。


知らなかったのではなく、まだ確かめたくなかった。

この頃の真由は、そんなところにいたのかもしれません。


この先、真由が何を知り、何を自分自身で認めていくのか、私自身も考えながら書いています。

もし何か感じていただけましたら、率直なご感想やリアクションなどいただければ幸いです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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