第五話 見ようとしなかったもの
知ってしまったあとでは、それまで何でもなかった記憶まで、違う意味を持って見えてしまうことがあります。
同じ言葉、同じ表情、同じ時間なのに、そこへ一つの事実が加わっただけで、過去の景色まで変わってしまう。
真由はこの夜、藤崎さんの嘘だけではなく、自分自身が見ようとしなかったものについても、少しずつ考え始めます。
昼休みに佐伯主任から聞かされたことは、午後になっても、仕事を終えて帰宅してからも、私の中でひとつの現実として受け入れられないままだった。藤崎さんが結婚していることも、横浜に家族がいることも、娘がいるらしいということも、言葉の意味は分かっているのに、それらを藤崎さんという一人の人間に重ねようとすると、どうしても噛み合わなかった。
けれど、考えないようにしようとするほど、今まで何の疑問も持たなかったことが、次々と頭に浮かんできた。
週末に会えなかったのは、家族に会うためだったのだろうか。連休になると予定があると言っていたのも、年末年始を一緒に過ごしたことがなかったのも、そのためだったのだろうか。単身赴任だと言っていたのに、その部屋へ一度も呼ばれなかったのも、私に家族の存在を知られないようにするためだったのだろうか。
そう考えると、今までどうしても噛み合わなかったものが、ひどく簡単につながってしまった。
それが嫌だった。
あまりにも簡単に説明がついてしまうことが、私は怖かった。
だから、別の理由を探した。佐伯主任が何かを勘違いしているのではないか、藤崎さんについて聞いた話そのものが間違っているのではないか、それとも私が何か佐伯主任の気に障ることをしてしまって、私を困らせるためにそんなことを言ったのではないかと、ありもしない可能性まで考えた。
けれど、そこまで考えてから、私は首を振った。
佐伯主任は、そんなことをする人ではない。誰かを好きか嫌いかで態度を変えることもなかったし、仕事でも人によって判断を変えることのない人だった。だからこそ、私は佐伯主任の言葉を、簡単には間違いだと言えなかった。
堪えきれなくなってトーク画面を開くと、そこにはこれまでと何ひとつ変わらない言葉が並んでいた。
『お疲れさま』
『今日は少し遅くなる』
『今夜、行ってもいい?』
何度読み返しても不自然なものは見つからないし、読み返すほどに、そこにあるのは恋人同士ならどこにでもある穏やかなやり取りばかりで、私はスマートフォンを握ったまま小さく息を吐き、背もたれへ身体を預けながら天井を見上げた。
すると、それまで見過ごしていた記憶ばかりが、暗闇の中で浮かび上がるように頭の中へ現れ始める。
私は藤崎さんのお母さんの顔を知らない。
写真を見たこともなければ実家へ行ったこともなく、住所も電話番号も知らず、五年という時間を考えればむしろ知っていて当然のことばかりが、私の手の届かない場所に置かれたままだった。
誕生日やクリスマス、年末年始、大型連休も、私たちは必ずしも一緒に過ごしていたわけではなかったけれど、それを特別に不満に思ったことはなかった。人の多い時期にわざわざ遠くへ出かけたいとも思わなかった。藤崎さんと会って、一緒に食事をして、同じ時間を過ごせれば、それで恋人として十分だと思っていた。だから、会えない日の理由を細かく確かめることもしなかったし、藤崎さんが話してくれたことを、そのまま受け取っていた。それで何か困ることがあるとは、考えたこともなかった。
けれど今になって振り返ると、その信頼は本当に相手へ向けられたものだったのだろうかと思う。
もしかすると私は、知ろうとしなかっただけなのではないか。
踏み込んだ先に見たくないものがあった時、それを受け止める勇気がなくて、自分に都合の良い場所へ立ち続けていただけなのではないか。
そんな考えが胸の奥をよぎった瞬間、不意に土曜日の朝の光景が鮮やかに蘇った。
鏡の前でネクタイを整えていた背中。
まだ毛布に包まったままの私を振り返り、少しだけ目を細めて笑った顔。
『今日は実家に行かないといけないんだ』
その声の調子まで思い出せる。
そして玄関へ向かう前に額へ落ちてきた優しい口づけも、私は何の疑いもなく受け入れ、それを愛されている証のように感じていた。
けれど、もし本当に横浜に家族がいるのだとしたら。
あの日の藤崎さんは、そのあとどこへ向かったのだろう。
実家ではなく、自宅だったのではないか。
私の部屋を出たあと、妻と娘の待つ家へ帰っていたのではないか。
そう考えた途端、胃の奥がひどく冷たくなり、それまで幸福な記憶として穏やかに並んでいた光景の一つひとつが少しずつ意味を変えながらこちらを見返し始め、私は思わず膝の上で指を強く握り締めた。
金曜日の夜に食卓を囲んだことも、一緒にワインを飲みながら笑ったことも、抱き寄せられたことも、翌朝に額へ口づけを落とされたことも、その時間が存在した事実だけは何ひとつ変わらないはずなのに、その先に私の知らない家があり、私の知らない家族がいて、私の知らない日常が続いていたのかもしれないと思った瞬間、同じ記憶であるにもかかわらず、まるで別の誰かの思い出を見ているような気分になった。
私はスマートフォンの画面へ視線を落とした。
そこには昨日と変わらない言葉が並んでいる。
文字は変わらない。
メッセージも変わらない。
変わってしまったのは、それを読んでいる私の方だった。
静まり返った部屋の中で、私は長いあいだ動くことができず、窓の外に広がる夜の色が少しずつ深くなっていくのを眺めながら、最後までメッセージを送ることも電話を掛けることもできないまま、暗くなった窓ガラスへ映る自分の顔からそっと目を逸らした。
この話では、真由が「騙されていた」ということだけではなく、五年間のあいだに自分自身が何を見て、何を見ないままにしていたのかを書きたかったです。
好きな人を疑わないことは、信じることなのでしょうか。
それとも、疑えば見えてしまうものが怖くて、見ないことを選んでいただけなのでしょうか。
真由自身も、まだその答えを持っていません。
私自身、この先の真由をどう書いていくべきなのか、少し迷いながら進めています。
もし何か感じていただけましたら、率直なご感想やリアクションなどいただければ幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




