第四話 みんな知ってる
人は、知らないことよりも、自分だけが知らなかったことに傷つくのかもしれません。
五年間、真由にとって藤崎さんとの時間は確かなものでした。
だからこそ、「結婚している」という事実以上に、「みんな知っていた」という言葉が、彼女の中に大きな衝撃を残します。
自分が見ていた世界と、周囲の人たちが見ていた世界は、同じものだったのでしょうか。
「彼、結婚してるの知ってるの?」
その言葉を聞いた瞬間、私は反射的に佐伯主任の顔を見返したのだけれど、そこには誰かの噂話を面白がるような軽さも、冗談を口にした時の気安さも見当たらず、むしろ長いあいだ言うべきか迷い続けた末にようやく口を開いた人間だけが持つ痛ましいほどの真剣さが滲んでいて、その表情を見た途端、それまで自然に浮かんでいた笑みは音もなく消え、胸の奥へ冷たい水が静かに流れ込んでくるような感覚だけが残った。
「何かの間違いじゃないですか」
自分でも驚くほど落ち着いた声だったが、それは冷静だったからではなく、佐伯主任の言葉があまりにも現実とかけ離れていたせいで驚きも怒りも追いつかず、理解することそのものを思考が拒んでいたからであり、私はただ目の前に座る佐伯主任を見つめながら、この五年間積み重ねてきた記憶のどこへその事実を置けばいいのか分からずにいた。
「間違いじゃないわ」
佐伯主任は静かに首を横へ振った。
「私だけじゃないし、多分、みんな知ってる」
その瞬間、私の中で大きく響いたのは結婚という言葉よりも、むしろ「みんな」という何気ない一語の方だった。
みんな知っている。
もし本当にそうなのだとしたら、私は五年という時間をかけて誰より近くにいるのだと思い込みながら、実際には誰もが知っている場所の外側に立ったまま笑っていたことになり、その事実は藤崎さんに家族がいるという話以上に、足元から静かに世界を揺るがしていた。
社員食堂には相変わらず昼休みのざわめきが満ちていて、誰かの笑い声も、食器の触れ合う乾いた音も、壁際のテレビから流れる昼のニュースも確かに耳へ届いているはずなのに、そのすべてが薄い膜の向こう側で起きている出来事のように感じられ、私はただ佐伯主任の顔を見つめたまま、自分だけが別の場所へ取り残されてしまったような心細さの中に立ち尽くしていた。
佐伯主任はしばらく言葉を探すように視線を落としていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「たしか娘さんもいたと思う」
私は何も言えなかった。
娘。
その一言だけが妙にはっきり耳に残った。
娘がいるということは、そこに生活があるということであり、毎日帰る家があり、食卓があり、休日があり、私の知らない時間が積み重なっているということだった。
「今は単身赴任だったはずよ」
佐伯主任の声が続く。
私は顔を上げた。
「単身赴任……?」
「ええ。横浜に家族がいるって聞いてる」
その瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
土日は基本的に会えなかったこと、連休になると予定があると言っていたこと、年末年始を一緒に過ごしたことがなかったことも、今になって振り返れば不自然だったはずなのに、あの頃の私は、それらを疑うことさえしなかった。疑わないことが相手を信じることだと思っていたし、信じることこそが、好きな人を愛するということなのだと思っていた。
土曜日の朝、毛布の中から「まだ眠い」と言った私を見て、呆れたように笑う顔が浮かぶ。
鏡の前でネクタイを整えながら「今日は実家に行かないといけないんだ」と言った声が蘇る。そして玄関へ向かう前に額へ落ちてきた、あまりにも自然で優しい口づけ。私はそのすべてを信じていた。疑わないことが愛することなのだとさえ思っていた。
「嘘……」
ようやく唇から零れ落ちた声は自分でも驚くほど弱く、息と一緒に消えてしまいそうだった。
佐伯主任は何も言わなかった。ただ困ったように眉を下げていた。
その表情を見た瞬間、私はようやく理解した。佐伯主任は私を傷つけようとしているのではない。
だからこそ、その言葉には逃げ場がなかった。私は無意識のうちにスマートフォンを手に取った。
画面には朝届いたメッセージが残っている。
『この前はありがとう』
ほんの数十分前まで、その短い一文を見るたびに胸の奥が温かくなっていたはずだった。
仕事帰りに百貨店で選んだワインのことも、一緒に囲んだ食卓のことも、帰り際に見送った後ろ姿のことも、そのすべてが穏やかな幸福として並んでいたはずなのに、今では同じ言葉がまるで別の意味を隠しているようにしか見えなかった。
ありがとう。
その言葉はいったい何に向けられたものだったのだろう。
夕食に対してだろうか。
ワインに対してだろうか。
それとも、自分の都合の良い時間だけ過ごせる場所がそこにあったことへの感謝だったのだろうか。
そこまで考えた瞬間、胃の奥がひどく冷たくなり、これまで幸福な記憶として並んでいた光景の一つひとつが少しずつ別の意味を帯びながら私を見返し始めたような気がして、私は初めて、自分が信じていた世界の輪郭そのものが静かに崩れ始めていることを理解した。
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り、食堂のあちこちで椅子を引く音が響き始めても、私はすぐに立ち上がることができず、手の中のスマートフォンを見つめたまま、自分だけが長いあいだ見ていた夢から取り残され、目を覚ましたあともなお現実へ足を下ろすことができないまま、その場に座り続けていた。
ここまで書いてきて、真由にとって一番大きかったのは、藤崎さんが結婚していたという事実だけではなかったのだと思っています。
「みんな知っていた」という言葉によって、五年間の記憶そのものが別の形に見えてしまう。
けれど、それでも私は、真由をただ「騙された女性」として描きたくはありませんでした。
彼女は何も知らなかった一方で、知ろうとしなかったことも確かにあったからです。
好きだったから信じたのか、信じたかったから見なかったのか。
その境目は、案外はっきりしていないのかもしれません。
この先、真由が自分の記憶と向き合っていくところまで、読んでいただけたらと思います。
もし何か感じていただけましたら、率直なご感想やリアクションなどいただければ幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




