第三話 余韻
人は、自分にとって都合のいい意味を、言葉の中へ自然に補ってしまうことがあります。
「実家へ行く」と聞いたとき、真由の中に浮かんだのは、藤崎さんの両親が暮らす家でした。
そこに疑問を持つ必要などないと思っていたし、そもそも疑うという発想さえなかったのだと思います。
けれど、五年間信じてきた日常は、ほんの一言で違う姿を見せ始めます。
土日は、基本的に会えなかったのだけれど、それを寂しいと思ったことはほとんどなく、金曜の夜になると藤崎さんは私の部屋へやって来て、二人で夕食を食べながらその週にあった出来事を話し、ワインを飲み、気が付けば夜更けまで他愛のない会話を続け、そのまま泊まっていくのがいつしか当たり前の習慣になっていたので、私にとって週末とは会えない時間ではなく、むしろ金曜の夜から始まる穏やかな余韻そのものだった。
翌朝になっても私はなかなか起きられず、平日でさえ目覚まし時計を何度も止めてしまうのだから休日にまともな時間に起きられるはずもなく、その日も毛布へ身体を埋めたまま微睡みと現実の境界を行ったり来たりしていて、浴室から聞こえてくるシャワーの音を遠くで降る雨のように聞きながら、まだ眠りの底を漂っていた。
やがて洗面所の扉が開く音がして、濡れた髪を無造作に掻き上げながら戻ってきた藤崎さんが、ベッドの脇へ腰を下ろす。
「起きないの?」
そう言われても、私は毛布を鼻先まで引き上げたまま、「まだ眠いです」と答えた。
「毎回それだな」
呆れたように笑いながら、藤崎さんの手が額に触れ、そのまま髪を撫でていく。
「だって眠いんです」
「知ってる」
低い笑い声に、私は目を閉じたまま少しだけ笑った。
藤崎さんは立ち上がると、ワイシャツに腕を通し、鏡の前でネクタイを結び始めた。毛布の隙間からその背中を眺めていると、楽しかった時間が少しずつ朝へ戻っていくようで、私はまだ眠っていたいような、このまま藤崎さんを見ていたいような気持ちになった。
「もう行くんですか?」
「用事があるんだ」
「あと五分だけ」
鏡越しに目が合うと、藤崎さんが笑った。
「真由は本当に朝が弱いな」
ネクタイを結び終えてもすぐには出ていかず、ベッドのところまで戻ってくると、毛布から出ている私の額にもう一度だけ触れる。
「じゃあ、もう少し寝てていいよ」
「はい」
私はその言葉に甘えるように、ブランケットを引き寄せた。
「藤崎さん」
「ん?」
振り返った藤崎さんと目が合う。言うつもりはなかったし、口にすれば困らせるかもしれないとも思っていたのに、その日はなぜだか、胸の中に残っていた言葉がそのままこぼれてしまった。
「……もう一回、してほしいです」
言った途端に恥ずかしくなって、私は視線を逸らした。藤崎さんは何も言わずにこちらを見ていたけれど、やがて小さく笑う。
「だめ」
あまりにもあっさり言われて、私は思わず顔を上げた。
「なんでですか」
「なんでも」
そう言いながらベッドの脇まで戻ってくると、藤崎さんは身を屈め、私の額にそっと口づけを落とした。触れたのはほんの一瞬だったのに、その仕草があまりにも優しくて、私はそれ以上何も言えなくなる。
「また今度」
「ずるいです」
私が小さく呟くと、藤崎さんは肩を揺らして笑った。
「今日は実家に行かないといけないんだ」
「お母さんですか?」
「うん。最近、足腰が悪くてね」
私はそれを聞いて、素直に頷いた。藤崎さんが「実家」と言えば、私の中に浮かぶのは、その言葉のまま、藤崎さんのお父さんとお母さんが暮らしている家だろう。
鏡の前でネクタイの位置を整えながらそう言う藤崎さんに、私は何の疑いもなく頷いた。
藤崎さんは昔から家族思いの人なのだと思っていたし、お母さんの様子を見に行くという話も何度か聞いていたから、その言葉を疑う理由などどこにもなかったし、むしろ高齢のお母さんを気遣う優しさに藤崎さんらしさを感じていた。
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
そう言って笑う藤崎さんを玄関まで見送り、扉が閉まったあとも私はしばらくその場に立ち尽くしていたのだけれど、部屋の中にはまだ微かに藤崎さんの残り香が漂っていて、私はワイングラスを洗いながら次はいつ会えるだろうかと考え、洗い終えたグラスを食器棚へ戻す頃には自然と次の金曜日のことを思い浮かべていた。
月曜日の昼休みになっても、その余韻はまだ心のどこかに残っていて、社員食堂の窓際の席へ座りながらスマートフォンを開いた私は、昼休みに入ってから何度目になるのかも分からないほど同じ画面を見返していた。
『この前はありがとう』
残されていたのは、それだけだった。
絵文字もなければ気の利いた言葉もない短い文章だったが、それでも私は画面を見るたびに口元が少し緩み、自分でも呆れるほど単純だと思いながら、その文字列を閉じてはまた開いていた。
「ここ、いい?」
顔を上げると、総務課の佐伯主任がトレーを持って立っていた。
「どうぞ」
そう答えると、佐伯主任は向かいの席へ腰を下ろし、最初のうちは仕事の話や来月の人事異動の噂、新しく入った派遣社員の話など、ごく普通の雑談を続けていたのだけれど、途中から妙に言葉が途切れるようになり、何かを言いかけては飲み込むような沈黙を何度も挟むようになったので、私は少し不思議に思い始めていた。
「藤崎係長とは仲が良いわよね」
不意にそう言われ、私は思わず笑った。
「そうですね。本当にお世話になってるんです」
自然にそう答えた私に対し、佐伯主任は小さく頷いたものの、それ以上は何も言わずに箸を止めてしまい、その様子に私はかすかな違和感を覚えながらも、それが何によるものなのかは分からなかった。
「どうかしました?」
私が尋ねると、佐伯主任は周囲へ視線を走らせ、誰もこちらを気にしていないことを確かめるように小さく息を吐いたあと、何かを決心したように私の顔を見た。
「ねえ、梶原さん」
「はい」
「あなた、本当に知らないの?」
その問い掛けはあまりにも唐突で、私は思わず首を傾げた。
「何をですか?」
佐伯主任はすぐには答えなかった。
一度だけ視線を落とし、それから再び私を見つめる。
食堂では誰かが笑い、食器の触れ合う音が響き、昼休みの時間はいつも通り流れていたのだけれど、その瞬間だけは周囲の音が少し遠くなったような気がした。
「梶原さん」
「はい」
佐伯主任の声は静かだった。
それなのに、なぜだか胸の奥がざわついた。
そして次の瞬間、佐伯主任はためらうように唇を結んだあと、静かに言った。
「藤崎さん、結婚しているのよ?」
この話を書いていて、真由は本当に何も知らなかったのだろうか、と私自身も考えました。
もちろん、藤崎さんが結婚していることを知らされてはいませんでした。
けれど、知ろうと思えば知ることのできたことまで、真由は深く考えようとはしなかった。
好きな人を疑いたくない気持ちは、決して特別なものではないと思います。
だからこそ、「知らなかった」の一言だけでは片づけられないところに、この物語の難しさがあるのだと思っています。
ここから真由が何を知り、何を思うのか、私自身も少し不安を抱えながら書いています。
もし何か感じていただけましたら、率直なご感想やリアクションなどいただければ幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




