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錯認の果て──不倫だと知らずに恋をした、私の物語。  作者: 髙山あきら


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第二話 今夜、行ってもいい?

五年という時間は、それだけで人を信じる理由になってしまうのかもしれません。

一緒に過ごした夜も、交わした言葉も、何気ない仕草も、その一つひとつが「この人を知っている」という感覚を作っていく。

けれど、知っていると思っていたことと、本当に知っていたことは、同じではありません。

この夜の真由は、まだその違いを知らないまま、いつもの幸せを疑いもせずに過ごしています。

 昼休みの終わり際に届いた一通のメッセージを見た瞬間、それまで取引先への返信文に頭を悩ませていたことも、午後までに仕上げなければならない資料のことも、会議用の企画書を上司に差し戻されたことへの憂鬱も綺麗に頭の中から消えてしまい、我ながら単純だと思いながらも、私はスマートフォンを手にしたまま、その短い文章を何度も読み返していた。


『今夜、行ってもいい?』

 たった一行だった。

 絵文字もなければ甘い言葉もない。

 けれど、その簡潔さがどこか藤崎さんらしく思えて、私は周囲に人がいることも忘れたまま小さく口元を緩めてしまう。


 付き合って五年になる。


 二十二歳だった私は二十七歳になり、入社したばかりの頃にはコピー機の使い方すら覚束なかったのに、今では後輩から仕事の相談を受ける立場になった。それだけの時間が流れているはずなのに、藤崎さんから連絡が来た時の胸の高鳴りだけは少しも変わらず、それどころか年月を重ねるごとに静かに身体の奥へ沈み込み、呼吸のように当たり前のものになっていた。


 私は急いで返信画面を開き、『もちろん』と打ち込んで送信したのだけれど、画面に送信済みの文字が表示された途端、もう少し時間を置いて返事をした方が良かったのではないかとか、待っていたことが伝わり過ぎたのではないかとか、そんなことを考え始めてしまい、自分でも可笑しくなって小さく息を吐いた。


 恋愛とは、私にとってずっと少し遠い場所にあるものだった。


 中学生の頃にはサッカー部の先輩に憧れ、高校生の頃には同じクラスの男子を目で追い、大学時代には本気で好きになった人もいたけれど、そのどれもが胸の内に抱えたまま終わっていて、自分から距離を縮めることも告白することもできなかった私は、誰かに選ばれるということを半ば諦めながら生きてきた。


 そんな私が藤崎さんを好きになった瞬間がいつだったのかと聞かれても、おそらく上手く答えることはできない。


 気付いた時にはもう好きになっていた。ただ、一つだけ妙にはっきり覚えている夜がある。入社して一年ほど経った頃の、忘年会の帰り道だった。


 私はお酒に強くなく、その日も勧められるまま何杯か飲んだせいで、酔うほどではないものの身体の内側が少し熱を持っていて、店を出たあとの冬の夜風が頬を撫でるたび、その冷たさが気持ちよく感じられた。


「駅まで送るよ」


 そう言ったのは藤崎さんだった。他の人たちは二次会へ向かい、私たちだけが駅へ向かって歩いていた。何を話していたのかは、今となってはほとんど覚えていない。仕事の話だったような気もするし、どうでもいいような話で笑っていた気もする。ただ、改札が見えてきた頃、不意に右手へ何かが触れ、その温もりが離れるどころか指先からゆっくりと絡んできた瞬間だけは、今でもはっきり覚えている。


 最初は偶然だと思った。けれど、次の瞬間には指が重なっていた。隣を見ると、藤崎さんは何事もなかったような顔で前を向いて歩いていて、それなのに私の手だけはしっかりと握ったまま離さなかった。


 私は何を言えばいいのか分からず、ただ繋がれた手と、耳の奥でやけに大きく響いていた自分の心臓の音を意識していた。冬の夜で、吐く息は白く、駅前には仕事帰りの人も、二次会へ向かう人もいて、決して二人きりの場所だったわけではないのに、そのときの私には、握られた手の温もりだけが世界の中から切り取られたように感じられた。


 あの瞬間、何かが変わったのだと思う。それまでただ尊敬していた先輩だった人が、気づけば目で追ってしまう人になり、仕事で名前を呼ばれるだけで少し嬉しくなって、会えない時間まで考えてしまう人になっていた。


 たぶん私は、あの夜、あの手を握られた瞬間に負けたのだと思う。

 

 そのあと藤崎さんが何を言ったのかも、どうやって家へ帰ったのかも曖昧なのに、指先へ伝わっていた体温だけは今でも不思議なくらい覚えていた。


 会社を出た私は、そのまま百貨店へ向かった。


 冷蔵庫の中身が足りなかったわけではないし、昨日のうちに作ったポテトサラダもあればハンバーグの材料も揃っていたのだけれど、それでも地下食品売場へ足が向いたのは、今夜をほんの少しだけ特別なものにしたかったからだった。


 仕事帰りの客で賑わう売場には焼き立てのパンの香りや揚げ物の匂いが漂い、私は生ハムの前で足を止め、チーズ売場ではしばらく迷った末に小さな盛り合わせを買い物かごへ入れた。


 最後に立ち寄ったワイン売場で、私は壁一面に並ぶボトルの前へ立ち尽くし、店員へ声を掛けた。


「今日、ハンバーグを作るんですけど、それに合う赤ワインってありますか?」


 勧められた一本の説明を聞きながら、私は六千八百円と書かれた値札を眺めていた。


 普段の私なら選ばない金額だった。


 それでも、その日は不思議と迷わなかった。


 休日に二人で買い物へ出掛け、夕飯の献立を相談し、ときには少し良いワインを選びながら食卓を囲む。


 そんな未来を思い描くことが、いつの間にか当たり前になっていた。


 マンションへ帰ると窓を開けて空気を入れ替え、玉ねぎを炒め、ひき肉を捏ね、デミグラスソースを火に掛けながら何度も時計へ目を向けた。


 インターホンが鳴ったのは午後七時半を少し回った頃だった。

 私はほとんど反射的に立ち上がり、モニターを見ることもなく玄関へ向かう。


「お疲れさま」

 そこに立っていた藤崎さんは、いつも通りのスーツ姿で、少し疲れた表情を浮かべながら穏やかに笑っていた。仕事を終えたばかりの皺の残るシャツや、少し緩んだネクタイまで見慣れているはずなのに、私はやっぱりこの姿が好きだった。玄関先でしばらくその姿を眺めていると、藤崎さんが気づいたように笑う。

「お疲れさまです」

「なんか今日、機嫌いいな」

「そうですか?」

「そう見える」

 そう言って笑う藤崎さんにつられて私も笑った。

 百貨店へ寄ったことも、少し背伸びをしてワインを買ったことも、早足で帰ってきたことも何も言っていないのに見透かされたような気がして、少しだけ照れ臭かった。


 藤崎さんは靴を脱ぐと、何度も来ている部屋なのだから迷うこともなく、そのままリビングへ入っていった。私は夕食の続きをするためにキッチンへ戻り、コンロの火加減を確かめる。


「いい匂いだな」

 リビングから聞こえてきた声に振り返ると、藤崎さんが上着をソファの背に掛け、ネクタイを緩めながらこちらを見ていた。

「もうすぐできますよ」

 そう答えてコンロへ向き直り火の調整をすると、背後から腕が回り、腰を抱かれるようにして身体を引き寄せられた。

「きゃっ」

 思わず肩を震わせた私を気にする様子もなく、藤崎さんは首筋へ顔を寄せ、触れるだけの口づけを落とす。

「お疲れさま」

「びっくりするじゃないですか」

「ごめん、ごめん」

 口ではそう言いながら、腕は離れない。私が鍋へ手を伸ばそうとすると、その手を軽く押し戻すようにして、「まだいいだろ」と笑い、もう一度首筋に口づけてから、私を抱いたまましばらく離さなかった。

「でも、焦げちゃいますよ」

「大丈夫だって」

 ようやく腕が解かれると、藤崎さんは何事もなかったようにテーブルへ向かった。テーブルの上にはワインクーラーが置かれ、その中で氷と水に浸かったボトルが静かに冷えている。

「今日のご飯、何?」

「ハンバーグですよ」

「いいね」

 藤崎さんはワインのボトルを一度眺めたあと、冷蔵庫を開けて缶ビールを一本取り出した。

「その前に、これ」

「ワイン、冷やしてあるのに」

「それは飯と一緒でいいだろ」

 プルタブを開け、缶を一口飲んでから、藤崎さんはソファへ腰を下ろした。

「真由、こっち」

 呼ばれると、私は火を弱めてから藤崎さんのところへ向かった。

「先にしない?」

 そう言った藤崎さんは、私が返事をするより先に腕を伸ばし、腰を抱いて自分の膝の上へ引き寄せた。突然だったけれど、もう何度も繰り返してきたことだから、私は驚くこともなく身体を預け、藤崎さんの肩に手を置く。

「せっかく作ったのに、冷めちゃいますよ」

「少しくらいいいだろ」

 藤崎さんはそう言って、私の髪を指先で撫でる。その指が耳の後ろをかすめるとくすぐったくて、私は肩をすくめながら笑った。

「今日はワインも買ってきたんですから」

「知ってる」

 そう言ってテーブルの上のワインクーラーへ目を向け、それから私を見る。

「飯のあとにしよう」

「最初からそうしてください」

「真由が来たから、つい」

 藤崎さんが笑い、私は呆れたように笑い返した。腰に回されていた腕がようやく解かれると、私は立ち上がってキッチンへ戻る。

「じゃあ、手伝ってください」

「分かった」

 藤崎さんも立ち上がり、私の後ろからついてくる。

 そんなふうにして、またいつもの夜が始まる。私は、この人が仕事から帰ってきて、ここで一緒に食事をして、くだらない話をしながら笑って、夜になれば同じ時間を過ごすことが、これからも当たり前のように続いていくのだと思っていた。

 


この場面を書きながら、真由にとっては、この夜も決して嘘ではなかったのだと思っていました。

食事を作ることも、少し良いワインを買うことも、玄関で彼を迎えることも、五年間積み重ねてきた時間の中では、ごく自然な日常だったのだと思います。

だからこそ、その日常の中にあったものを、彼女は見ようとしなかった。

知らなかったというより、知る必要がないと思っていたのかもしれません。

この先、真由が自分の「錯認」と向き合っていく過程を、どのように受け取っていただけるのか、少し不安でもあります。

もし何か感じていただけましたら、率直なご感想やリアクションなどいただければ幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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