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錯認の果て──不倫だと知らずに恋をした、私の物語。  作者: 髙山あきら


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第一話 秘密だったのは私だけ

「錯認」とは、目の前にあるものを、事実とは異なるものとして認識してしまうこと。


けれど、この物語で描きたいのは、単なる思い違いではありません。

自分が見ていたものと、周囲の人たちが知っていたもの。その間にあった、ほんの少しのずれが、やがて人生そのものを変えてしまう。


金曜日の夕方。

いつもと変わらない一日の中で、真由はまだ何も知らない。

 金曜日の夕方になると、私は少しだけ落ち着かなくなる。


 窓の向こうでは薄曇りの空がゆっくりと暮れてゆき、営業部の誰かがコピー機の前で小さく舌打ちをし、遠くでは電話の保留音が途切れ途切れに流れていて、週末前の職場にはいつもと変わらない空気が満ちていたのだけれど、そのありふれた光景の中で、私はパソコンの画面へ向かいながらも、どこか気持ちの落ち着かないまま午後の時間を過ごしていた。


 給湯室へ向かったのは、書類の確認をひと区切り終えた頃だった。

 紙コップへコーヒーを注ぎながらぼんやり窓の外を眺めていると、背後から声を掛けられた。


「梶原さん」

 振り返ると、総務課の佐伯主任が立っていた。

 四十代半ばの彼女は紙コップを片手に私の隣へ並ぶと、何かを確かめるようにしばらく私の顔を見つめ、それから小さく首を傾げた。


「最近どう?」

 唐突な問いだった。

「どう、ですか?」

 私が聞き返すと、佐伯主任は曖昧に笑った。

「うん。元気かなと思って」

「元気ですよ」

 そう答えると、佐伯主任も笑った。

 けれど、その笑顔はどこか不自然だった。


 何かを言おうとしているようにも見えたし、何かを飲み込んでしまったようにも見えた。

 私は少し不思議に思ったのだけれど、佐伯主任は結局何も言わなかった。

「なら良かった」

 それだけを残し、紙コップを手にしたまま給湯室を出ていく。

 私はしばらくその背中を見送ったものの、それ以上深く考えることはなかった。

 仕事中には時々こういうこともある。

 そう自分を納得させ、コーヒーを片手に席へ戻った。


 その時だった。

 机の上に置いていたスマートフォンが小さく震えた。

 私は反射的に手を伸ばし、画面を見た瞬間、それまで胸の奥に残っていた小さな違和感が綺麗に消えていくのを感じた。


 藤崎さんだった。

『今夜、行ってもいい?』

 たった一行だった。


 絵文字もなければ甘い言葉もない。

 誰が見ても何気ない連絡だったのだろうけれど、私にとってはそれだけで十分だったし、その短い文章を見ただけで仕事終わりの時間が少し特別なものへ変わったような気がした。


 私は急いで返信画面を開くと、『もちろん』と打ち込み、そのまま送信ボタンを押したのだけれど、送ったあとになって急に恥ずかしくなり、もう少しくらい時間を置いた方が良かったのではないかと考えてしまう自分に小さく苦笑した。


 付き合って五年になる。


 二十二歳だった私は二十七歳になり、入社したばかりの頃には電話応対ひとつ満足にできず失敗するたびに落ち込んでいたのに、今では後輩から相談を受ける立場になった。


 それだけの時間が流れているはずなのに、藤崎さんから連絡が来た時の嬉しさだけは少しも変わらず、むしろ歳月を重ねるごとに生活の奥深くへ静かに根を下ろし、呼吸のように当たり前のものになっていた。


 恋愛とは、私にとってずっと少し遠い場所にあるものだった。


 中学生の頃にはサッカー部の先輩に憧れ、高校生の頃には同じクラスの男子を目で追い、大学時代には本気で好きになった人もいたけれど、そのどれもが胸の内に抱えたまま終わっていて、自分から距離を縮めることも告白することもできなかった私は、誰かに選ばれるということを半ば諦めながら生きてきた。

 だからこそ、藤崎さんは特別だった。

 仕事で失敗した時も、落ち込んだ時も、迷った時も、気が付けばいつも隣にいてくれる人で、私が口にする前の不安まで見透かしてしまうようなところがあった。

 八歳年上のその人は、上司であり、先輩であり、そしていつしか誰よりも信頼できる存在になっていた。


 定時を少し過ぎた頃、私は会社を出た。

 駅へ向かう人の流れに混じりながら歩いていると、自然と足取りが軽くなっていることに気付き、自分でも少し可笑しくなる。


 今夜は藤崎さんが来る。

 それだけで十分だった。


 街路樹の向こうでは夕暮れの光がゆっくりと色を失い始めていて、仕事帰りの人々が足早に駅へ向かう中、私はその流れに身を任せながら、これから始まる週末のことを考えていた。

 その夜の私は、給湯室で見た佐伯主任の曇った表情の意味も、飲み込まれた言葉の続きを知ることもなく、ただ好きな人と過ごす時間を心待ちにしながら、夕闇へ沈み始めた街を歩いていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この物語を書きながら、私自身も「人は、見えているものだけを見ているのではないのかもしれない」と何度も考えました。

誰かを信じることも、好きになることも、その人について自分が知っていることを前提にしています。けれど、その前提そのものが間違っていたとしたら、これまで大切にしてきた時間を、私たちはどう受け止めればいいのだろうと思ったことが、この物語を書くきっかけの一つでした。

真由が経験したことを、どのように受け取っていただけるのか、少し不安でもあります。

もし何か感じていただけるものがありましたら、率直なご感想やリアクションなどいただければ幸いです。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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