第四十話 The Chain
最後に一度だけ話せば、すべて終わる。
そう思っていた真由でしたが、その決意は簡単には通りませんでした。
「真由。一度だけ話をさせてくれないか」
代理人を通して――。
そこまで思ったのに、喉はひくりとも動かなかった。
握られた手首が、ぎり、と締まる。
「あ……。ふじ……さき……さん」
絞り出した声はあまりにも細く、本当に口から出たのかさえ分からなかった。
「真由。ちゃんと話をしたいんだ。開けてくれないか」
何度も私を安心させてきた声だった。
あの声に名前を呼ばれるたび、嬉しくて、それだけで一日が報われたこともあった。その記憶だけが、不意に胸の奥から浮かび上がる。けれど、手首を離さない指先だけは、その頃とは何もかも違っているような気がする。
開けたら終わる。その考えだけは、消えなかった。
「藤崎さん……。痛いです」
「この手を離したら、もう君と会えない気がするんだ。開けてくれないか?」
私だって、話したかった。
どうして結婚していることを黙っていたの。
私、あなたの子を妊娠していたの。
あなたが好きだったの。
……あなたも、私を好きだったの?
「真由。お願いだ」
藤崎さんがため息混じりに私の名を呼んだ。穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりとうなずいた。
「待って、チェーン外しますから手を離して」
「……真由」
藤崎さんの手が名残惜しそうにゆっくりと離れ、私は開きかけたドアを閉めると、ためらいながらチェーンの金具へ手を伸ばした。話すだけ。それだけで終わりにする。最後に一度だけ話して、全部終わらせる。その約束を胸の中で何度も繰り返しながら、私はゆっくりとチェーンを外した。
カチャン
チェーンが落ちた。
「真由」
乾いた金具の音とほとんど同時に、ドアが大きく開いた。
次の瞬間には、藤崎さんの腕の中だった。
汗の匂いが鼻先をかすめ、頬が胸板へ押しつけられる。硬すぎないその感触は、何度も抱きしめられた記憶を嫌でも呼び起こし、息が詰まるほど強い腕の中で、言葉は脆く、伝えたかったことは声にならなかった。
藤崎さんは、何度も私の名を呼んだ。
そのたびに、私は小さくうなずいた。
「な? 真由。一旦落ち着いて」
藤崎さんが背中を一定のリズムで軽く叩く。その手つきは、付き合っていた頃と何も変わらなかった。
「真由。被害届取り下げてくれよ。まだ怒ってるのか?」
「え?」
顔を上げると、藤崎さんはもう笑っていなかった。
藤崎さんの手が私の頬に触れる。私の頬をすっぽりと覆う、大きく温かな手。その手が、小さく震えていた。
「な? お互い会社にいられなくなったら困るだろ?」
「私は――」
言葉を遮るように、藤崎さんの親指が唇の端へそっと触れる。それだけで、続きは喉の奥へ押し戻されてしまった。
藤崎さんは再び私を抱き寄せ、私が抗う隙を与えないように耳元へ顔を寄せると、「真由、頼むよ」と低く囁く。その声に縫い止められたように身体は強張り、何かを言おうと開いた唇は、とうとう一言も声にならなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が藤崎さんと直接話すために、もう一度だけ向き合おうとする場面を書きました。
かつて安心を与えてくれた声や抱きしめられた記憶が、今の真由を縛るものにもなっています。
「好きだった」という気持ちと、「もう終わらせなければならない」という現実。その二つを簡単に切り分けられないところが、今の真由なのだと思います。
それでも、真由はまだ自分の言葉で最後まで話すことができませんでした。
この先、真由が自分の意思で何を選ぶのか。続きを読んでいただけたら嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




