第三十九話 話をさせてくれ
「自分の意思」とは何なのか。
真由はひとりで考え続けます。
けれど、その静かな時間は突然途切れることになります。
——私の意思。
あの言葉だけが、何日も心に引っ掛かったままだった。
冷蔵庫には、退院した日に買った食材がそのまま残っていた。レタスも、生ハムも、チーズも、あの日の私のために買ったものだった。食べるつもりで買ったはずなのに、その気力だけがどこかへ消えてしまっていた。
冷蔵庫を開けても、水を一口飲んで閉めるだけ。
タオルケットを頭まで引き寄せると、昼なのか夕方なのかも分からないまま目を閉じる。
カーテンは閉め切ったまま。
朝なのか昼なのか、時計を見ても時刻は意味を持たない。
モーター音だけが、変わらず部屋のどこかで鳴っている。布の中に潜り込んでも、その低い音だけは耳から離れなかった。
食べなければ。
シャワーを浴びなければ。
洗濯もしなければ。
何一つできないまま、部屋はいつの間にか暗くなっていた。
——私の意思って、何だろう。
下腹部に鈍い重さが残っている。
その痛みが、あの子がもう私の中にはいないことを何度も突きつけてきた。
好きになった人と一緒にいたいと願った私は、そんなにいけないことをしていたのだろうか。
ごくごく普通の人生を歩んでいくものだと思っていただけだった。
好きな人と恋をして、結婚して、子どもが生まれて、忙しいと笑いながら毎日を過ごし、そんな日々がずっと続いていくものだと信じていた。
それだけのことが、どうして私には許されなかったのだろう。
問いは何度も私の中へ戻ってきて、そのたびに目を閉じても涙は止まらなかった。
窓から差し込む光だけが、床の上を少しずつ移動していた。私だけが、その場に取り残されていた。
沈み切っていた私を現実へ引き戻すように、玄関のチャイムが鳴った。
両耳を塞いでも、電子音だけは布を通り抜けるように部屋の隅々まで染み込み、やがてチャイムは息をつく暇も与えないほどの間隔で鳴り始めた。
今度は玄関のドアを叩く鈍い音が、間隔を縮めながら繰り返され、そのたびに叩く力も強くなっていく。乾いた音は玄関だけでは収まりきらず、部屋の奥まで響いてくるようになった。
ピンポン。
ピンポン。
ピンポン。
思わずスマートフォンを握り締める。
このままではいけない。
インターホンのモニターには誰も映っていなかった。ドアスコープを覗いても、人影は見えない。
耳を澄ませても、もう何も聞こえない。
さっきまで玄関を震わせていたチャイムもノックも嘘のように止み、部屋には自分の呼吸だけが残っていた。
帰ってくれたのだろうか。
震える指でチェーンロックを掛けたまま鍵を回し、わずかにドアを開けた、その瞬間だった。
ドアが外側から強く引かれ、ギャンッ、とチェーンが張った。
声も出せず、その場で体が固まった。
その直後、ドアノブを握っていた私の手首を、隙間から伸びてきた手が力強く掴んだ。
「真由。一度だけ話をさせてくれないか?」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、退院後の部屋で何もできないまま過ごす真由が、「自分の意思」について考え続ける場面を書きました。
これまで当たり前だと思っていた人生を振り返りながら、真由は初めて、自分が何を望んでいたのかを考え始めています。
けれど、まだ答えは出ていません。
そして最後には、静かな時間を断ち切る出来事が起こりました。
ここから真由がどう向き合うことになるのか、続きを読んでいただけたら嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




