第三十七話 And So It Goes
長かった入院生活を終え、真由はひとつの決断と向き合います。
そして、そこから先のことを考え始めます。
週明けの朝から始まった中絶手術は、昼過ぎには終わった。
驚くほど呆気ないものだった。
あの子の姿を見ることもないまま、処置は淡々と進み、私は医師の説明を受け、その足で会計へ向かった。
大久保君は、終始口を開かなかった。
同意書にも、迷うことなく名前を書いてくれた。けれど、その静けさだけが二人の間に残り続けた。
何か話さなくてはと思うたび、言葉は喉まで上がってきては消え、結局、口にできる話題はひとつも見つからなかった。私の中には、誰かと沈黙を埋めるための引き出しが、最初からほとんど用意されていなかったのかもしれない。
あの子は、どこへ行ってしまったのだろう。
妊娠が分かったあの日、最初に浮かんだのは、藤崎さんにこの子の存在を伝えたら、離れてしまうのではないかという不安だった。それなのに、入院してエコーに映る影を見たときは良かったと思った。
産むのか、産まないのかさえ決められないまま、そんな気持ちを抱いた私は、あまりにも無責任だった。生まれてくるあの子を心から愛せる自信もなかった。母親になる資格なんて、最初から私にはなかったのだろう。
私は、置いていかれて当然なのかもしれない。
「お昼ご飯でも食べて帰る?」
会計を終えて待合ロビーへ戻ると、大久保君が、少し間を置いて口を開いた。
「うん。そうだね」
病院を出ると、夏の日差しが容赦なくアスファルトを照りつけていた。私たちはほとんど言葉を交わさないまま、病院の向かいにある喫茶店へ向かった。
ドアベルが小さく鳴る。
ピアノ曲が流れる喫茶店だった。
私はミックスサンドとオレンジジュースを、大久保君は日替わりランチとコーヒーを注文した。
お互いにしばらく言葉はなかった。
カップがソーサーへ置かれる乾いた音が店内に響く。カウンターの奥ではマスターがコーヒーを淹れ、新聞を読む常連客が時折ページをめくる音だけが聞こえていた。
大久保君が店内のBGMへ意識を向けるようにして、小さく笑う。
「この曲、知ってる?」
私は首を横に振る。オレンジジュースにはまだ口をつけていなかった。ストローだけを指先でゆっくり回した。
「ビリー・ジョエルの『And So It Goes』。傷つくことを知っていても、人は恋をしてしまう……そういう歌なんだ」
私は返事をしなかった。
店内には他の客の話し声や食器の触れ合う音が混じっていた。それでも、一音一音を確かめるようなピアノだけは、不思議とはっきり耳に届いた。
それでも人を愛してしまう。
ストローに触れた氷が、小さく音を立てた。
私は、藤崎さんを好きになれば幸せになれるのだと信じていた。けれど、その恋が私に残したのは失うことばかりで、五年という時間を失った二十七歳の私が、この先もう一度誰かを信じ、恋をして、その人との未来を願える日が本当に来るのだろうか。
大久保君はコーヒーを飲み終え、カップをソーサーへ戻した。少しだけ私を見つめ、それから口を開いた。
「さて、ここからどう生きるかを決めよう」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が長く抱えてきたものに、ひとつの区切りがつく話でした。
産まないつもりだったはずなのに、失ってみると、その喪失は思っていたよりずっと大きかった。
藤崎さんとの五年間も、赤ちゃんのことも、真由にとっては簡単に切り離せるものではなかったのだと思います。
そんな真由に、大久保君が「ここからどう生きるかを決めよう」と言います。
過去を取り戻すことはできなくても、これから先をどうするのか。
真由が少しずつ考えていくことになります。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




