第三十六話 Jigの沈黙
退院した真由は、ようやく自分の部屋へ戻ります。
けれど、そこで待っていたのは、以前と同じ日常ではありませんでした。
目の前の用事だけは、ひとまず片付いた。
警察への被害届を提出し、数日分の買い出しを終えたころには、両手いっぱいになった荷物を大久保君が黙って家の中まで運び入れてくれた。
「ごめんね」
私は、お茶のボトルを冷蔵庫に片付けながら大久保君を見た。
「いいよ。とにかく、しばらくは外出しないで」
「でも、何をしたらいいのか分からない」
そう言うと、大久保君は小さく息をついた。
「何かしようとしなくていい」
私は黙ったまま俯いた。
手に持ったブロッコリーの芽をひとつずつ目で追う。その緑だけが妙にはっきりと見えて、他には何も考えられなかった。
「家にいて、鍵を掛けて、知らない番号から電話が来ても出ない。それだけ守ってくれればいい」
大久保君はそう言いながら、袋の中から牛乳やヨーグルトを取り出し、私へ手渡した。
「そんな生活、いつまで続くの?」
「病院でも言われたし、警察にも言われただろ。一人で行動しないようにって」
その言葉に返事はできなかった。
週明けには摘出手術が待っていた。
まだ、体の中にいるあの子のことを、大久保君には伝えていなかった。
「あの……」
呼び止めると、大久保君が振り返る。
喉が詰まり、何から話せばいいのか分からない。
「赤ちゃん……死んじゃったの」
「月曜日に摘出手術をするの。私がいらないって最初に思ってしまったせいだ」
大久保君の表情がわずかに強張る。その沈黙が、かえって言葉より先に私の胸へ届いた。
「梶原さんは悪くない」
迷いのない声だった。けれど、私が聞きたかったのはそんなことではなかった。慰めの言葉では、胸の奥に溜まった濁りは少しも薄れるわけではなかった。
「病院の先生も、悪くないって言ってた。よくあることだって。……こんなことが、よくあることなの?」
八つ当たりだと分かっていた。それでも、行き場を失った言葉は止められない。
あの物語の彼女は、きっとああするしかなかったのだ。
部屋には冷蔵庫の低い駆動音だけが響いている。買ってきたばかりの食材は、まだテーブルの上に並んだままだった。
「今は休んで」
「休んでって言っても……」
冷蔵庫の扉を少し強く閉めた。上に置かれたトースターが小さく揺れる。
大久保君に向けるものではないことくらい、自分でも分かっていた。
「ごめんなさい」
いつの間にか伸びていた爪が、握り締めた手のひらへ食い込む。
「気にしないで」
大久保君は窓際まで歩き、少しだけ窓を開けた。夏の熱気が流れ込み、部屋に澱んでいた空気をゆっくりと押し出していく。
「今は、体を休めて」
「うん……ごめん。ごめんなさい」
「月曜日は僕も付き添うから」
「うん」
「ね?」
「うん」
床に落ちた自分の影が、涙で滲んで見えた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、退院した真由が自宅へ戻り、大久保君に赤ちゃんのことを打ち明ける場面を書きました。
「よくあること」と言われても、失った側にとっては、そんな言葉だけでは受け止められないものだと思います。
最初は産まないつもりだった。それでも、いなくなったと知った今は、そのことを自分への罰だと思わずにはいられない。
真由自身も、まだ自分の気持ちを整理できていません。
そんな真由のそばに、大久保君がどう関わっていくのかも、これからの一つの軸になっていきます。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




