第三十五話 沈黙のあと
退院を目前にした真由のもとへ、大久保君がやってきます。
そこで、これからのことを改めて考えることになります。
荷物は大して無かった。
持ち込んだ着替えと洗面用具を一つずつバッグへ戻し、床頭台の引き出しを開けて忘れ物がないか確かめる。小さな財布を開き、カードと現金を指先で数えてから元の場所へしまうと、それだけで退院の支度は終わってしまった。
夕食の時間も終わったし、もうそろそろ大久保君が来るかもしれない。
私は深く息を吐いた。
あの子さえ、私のそばには残ってくれなかった。
最初に、中絶しようとしたからだ。あの子を最初に拒否しようしたのは私だった。
これは、罰だ。
そう思わなければ、この喪失を受け止められなかった。
大久保君が持ってきてくれた『白い象のような山並み』を読んでいるあいだ、私は何度も頁から目を離した。あの物語で交わされる言葉は、誰のものでもないはずなのに、頁を追うたび私の沈黙だけを映しているようだった。
「こんばんは」
大久保君が音もなくドアを開けた。私はベッドの背にもたれたまま顔を上げ、小さく口元を緩めた。
「大久保君、こんばんは」
声は思っていたよりも落ち着いていた。膝の上で重ねていた手を組み直し、小さく息を吐く。まだ大丈夫だと、自分に言い聞かせるように。
あの本を読み終えてから、彼女が最後まで本当の気持ちを口にしなかった理由だけは、痛いほど分かった。
私にも、何事もなかったような顔ができるだろうか。
「明日、退院することになったよ」
そう言って笑おうとしたけれど、うまく笑えていたのかは、自分でも分からなかった。
「そうか。何時? 迎えに行くよ」
「金曜日だし、一人で帰れるよ」
「ダメだ」
間髪を入れず返ってきた言葉に、苦笑するしかなかった。
「大丈夫だって」
「その『大丈夫』を、俺はもう信用してない」
大久保君はそう言うと、無言のまま椅子へ腰を下ろした。しばらく俯いて膝の上で手を組み、言葉を選ぶように指先をゆっくり動かしていたが、やがて顔を上げる。
「言うべきか迷ったけど……」
一度だけ息を吐き、眼鏡の奥から私を見る。
「藤崎さんが、毎日ここへ来てる。一人で退院するのは危険だ」
「え?」
思わず聞き返すと、大久保君は眉をわずかに寄せた。
「梶原さん、退院したら、そのまま警察に被害届を出しに行こう」
「そこまでしなくても」
「君、自分が今どういう状況にいるのか、本当に分かってる?」
食い気味にいう大久保くんの言葉に、私は答えられなかった。
「病院は藤崎さんを立ち入り禁止になってる。それでも来ようとして、警察が呼ばれた」
大久保君はそこで言葉を切り、眼鏡の奥から私をまっすぐ見た。膝の上で組んでいた手をほどき、片方の手で顎に触れる。いつもの癖なのに、その仕草には考えを整理するような落ち着きがあった。
「俺も、この一週間ずっと君を一人にしないよう動いてきた」
一度だけ息を吐き、大久保君は視線を逸らさなかった。私が目を伏せても、何も言わずに待つようにこちらを見ている。その沈黙に耐えられなくなって、私はようやく顔を上げた。
「梶原さん。君が優柔不断な対応を続けるたびに、周りはその後始末をしてる」
大久保君はそう言ってから、膝の上で組んでいた手をゆっくりほどいた。眼鏡の奥の目は静かで、声にも苛立ちは滲んでいない。それがかえって怖くて、私は何も答えられないまま視線を落とした。
しばらくして顔を上げると、大久保君はまだ私を見ていた。何かを確かめるように黙ってこちらを見つめ、それから小さく息を吐いて、静かに口を開く。
「これはもう、君一人の問題じゃない」
一拍置いて、大久保君は顎に触れた。いつもの癖だったけれど、その指先はしばらく動かず、考えをまとめるように止まっていた。
「退院したら、警察へ行こう。階段から突き落とされた件で、被害届を出す」
私は返事をしようとしたけれど、声が出なかった。
大久保君はそんな私を見たまま、少しだけ眉を寄せる。それでも声を荒らげることはなく、確認するように一言だけ重ねた。
「分かったね?」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、赤ちゃんを失ったことを「罰」だと思うことでしか受け止められない真由の姿を書きました。
一方で、大久保君は真由が一人で抱え込んできたものを、もう本人だけの問題ではないと考えています。
真由が「そこまでしなくても」と言ってしまうのも、これまで自分で決めることを避けてきた彼女にとっては、まだ自然な反応なのだと思います。
けれど、退院すれば、もう病院という守られた場所にはいられません。
ここから真由自身が、自分の身に起きたことと向き合うことになります。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




