第三十四話 珍しいことではない
入院から一週間。
退院を目前にした真由は、産科の診察を受けます。
入院してから一週間。午後の産科の診察を終えれば、退院できる。
最初の数日は、何が起きたのかも分からないまま過ぎていった。藤崎さんが病室へ現れ、警察から事情を聞かれ、そのたびに胸の奥が冷えていった。
それでも精神科の先生が診てくれ、夜は眠剤を飲んで眠るようになった。少しずつ眠れる日が増え、大久保君が代理人として藤崎さんや会社とのやり取りを引き受けてくれたことで、私が向き合わなくてはいけないことは、ひとまず大久保君に預けられるようになった。
藤崎さんとは、あれきり会っていない。着信も拒否したままで、連絡が来ているのかどうかも、もう確かめていなかった。
仕事はどうなったんだろう。
一度だけ会社へ連絡したが、「しばらく療養してください。診断書が出たらご連絡ください」と言われただけだった。
振り返れば、社内に親しい人はいなかった。
同期と食事へ行くことも、誰かと休日を過ごすことも、藤崎さんはいい顔をしなかった。「俺がいるのに、どうして?」と冗談めかして言われるたび、その場では笑って受け流しながらも、誘いを断ることを選んだ。
藤崎さんは土曜の朝になれば帰ってしまう。それでも私は、そのわずかな時間を失うことの方が怖かった。
一度断り、二度断り、それを繰り返すうちに、声をかけられること自体が少なくなっていった。
気づけば、昼休みは一人で過ごすのが当たり前になり、仕事帰りに誰かと駅まで歩くこともなくなっていた。私はそれでも構わないと思っていた。藤崎さんがいてくれるなら、それで十分だと信じていたからだ。
それでも構わないと思っていた。そうして失くしてきたものは、きっと一つではなかった。
「梶原さん、そろそろ産科へ行きましょうか」
もう、十週目に入っているはずだった。
少しずつ人の形になり、そのうちつわりも始まるのかもしれない。中絶するつもりではあったけれど、この子が生きていることを確認できたとき、ほっとしたのは確かだった。
その気持ちに名前をつけることはできなかった。ただ、産まないと決めていたはずの心は、少しだけ揺らいでいた。
椅子のような診察台に腰を下ろすと、「そのまま動かないでくださいね」と言われた。
小さな機械音を立てながら背もたれが倒れ、足台がゆっくりと開いていく。
初めて乗ったときは、このままどこかへ運ばれてしまうようで怖かった。けれど一週間も入院していれば、その動きにも慣れてしまうものだった。
医師は器具にカバーをかけ、ゼリーを塗ると、ゆっくりと挿入した。ひやりとした感触が、身体の奥へ伝わった。
モニターに白黒の映像が映し出される。医師は画面から目を離さないまま、小さく息をつき、器具をわずかに動かして、もう一度同じ場所を映し出した。
診察室の静けさが、肌に張りつくようだった。
「……梶原さん」
呼ばれた声に顔を向ける。
「心拍が確認できません」
「え?」
間の抜けた声が、自分の口からこぼれた。
何を言われたのか、すぐには意味が結びつかなかった。
「……残念ですが、お腹の中で赤ちゃんが亡くなっています」
医師は少し間を置いて、続けた。
「妊娠初期には、決して珍しいことではありません。お母さんが悪いわけではありませんから」
珍しいことではない……そう言われても、私はモニターを見つめたまま、何も答えられなかった。
「このまま自然に出てくるのを待つ方法と、手術で子宮の中をきれいにする方法があります。どちらにするかは、少し落ち着いてから一緒に考えましょう」
医師は手袋を外しながら、淡々と告げた。
「どちらも選択できますが、十週ですので自然排出まで時間がかかる場合があります。精神的なご負担も考えると、手術を選ばれる方も多いです」
診察台がゆっくりと元の角度へ戻っていく。私は腹まで上がったタオルを膝まで引き下ろした。
「今日は急いで決めなくて大丈夫です。一度病室へ戻ってご家族と相談してください」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、退院を目前にした真由が、藤崎さんとの五年間を振り返る場面を書きました。
「藤崎さんがいてくれるなら、それで十分」と思っていた真由ですが、その五年間の中で、気づかないうちに友人とのつながりや、自分自身の時間まで失っていたことに気づき始めています。
そして、産まないつもりだったお腹の子についても、心の中にはすでに小さな変化が生まれていました。
そんな中で告げられた、赤ちゃんの死。
産むつもりではなかったはずなのに、いなくなったと知った瞬間、何を感じればいいのかさえ分からない。
今回の出来事が、真由の中に何を残すのか。
続きを読んでいただけたら嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




