第三十三話 ヘミングウェイ
少しずつ、退院後のことを考え始めた真由。
そのために、ひとつの決断をします。
夕食を終え、病室の窓から差し込んでいた西日もすっかり消える頃、大久保君が見舞いに来てくれた。
「こんばんは」
遠慮がちに引き戸が開いた。顔を上げると、大久保君は私と目が合うと、口元を緩めた。
「調子はどう?」
「うん……昨日よりは」
本当は何も変わっていなかった。ただ、昨日より少しだけ、自分を突き放して見られるようになった気がした。それだけだった。
自分の力では眠ることすらままならない。ただ、「調子はどう?」と聞かれると、そう答える以外の言葉が見つからなかった。
「何か欲しいものとかない? 病院って暇だろ。本でも雑誌でも買ってくるけど」
私は少しだけ考え、視線を窓の外へ向けた。
「……ヘミングウェイを買ってきてくれないかな」
「どれを?」
どの作品が読みたいのかと聞かれ、私は答えに詰まった。
『老人と海』でも、『武器よさらば』でも、『日はまた昇る』でもない。
どの作品でもよかった。
読みたかったのは、ヘミングウェイの小説そのものではなく、彼の名前だった。
「……何でもいい。ヘミングウェイなら」
「『老人と海』は読んだけどさ、正直、何が面白いのか俺にはよくわからなかった。魚を釣って、最後はサメに食われて終わりだろ? 『敗北しても尊厳は失わない』っていうテーマらしいけど、象徴とか寓意が多すぎて、俺には素直に楽しめなかったな」
大久保君は顎に手をやり、親指でゆっくりと撫でた。
「……わかった。明日、本屋をのぞいてみるよ」
「うん。ごめんね」
退院したらやるべきことが頭の中で順番に並んでいた。このままひとつずつ片づけていけば、きっと元の生活へ戻れる。
「梶原さん。無理してない?」
大久保君はコンビニで買ってきたコーヒーのプルタブを開け、私にエクレアを勧めてきた。
「ありがとう」
エクレアにかぶりつくと、しっとりとしたシュー生地が潰れ、中から冷たいカスタードクリームがあふれた。甘さが、思っていたよりずっと深く残った。
「大丈夫よ。少しずつだけど、ちゃんと前を向けそうだから。これからのことを考えないと」
「ところで、代理人の件は考えてくれた?」
大久保君はコーヒーの缶を指先でゆっくりと転がし、私はその指先へ目を向けたまま、エクレアの包み紙の端を折り、また開いた。
「職場とのやりとりもしてくれるの?」
「勿論。休職の手続きや会社への連絡は、代理人として引き受けるよ。部署異動を希望するなら、その意向も伝えられる」
私は小さく頷き、唇を結んだ。
「……お願いしていい?」
「じゃあ、明日正式に代理人としての契約をしよう。他の先生にお願いする?」
私は首を横に振った。
「ううん。大久保君にお願いするわ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が退院後の生活を考えながら、これからのことを少しずつ整理していく場面を書きました。
そして、代理人を大久保君にお願いすることを決めました。
ここから真由の生活も、少しずつ変わっていくはず!
今回の話についても、率直な感想やリアクションをいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




