第三十二話 愚か者
少し眠ることができた真由は、これからの生活について考え始めます。
病室で振り返る五年間は、これまでとは違って見えていました。
薬のおかげで、だんだんと眠くなった。
微睡みの中で、大久保君が何か話しかけ、私も何かを返した気がする。一言二言、言葉を交わした記憶だけがぼんやりと残り、何を話したのかだけは思い出せなかった。
夜中に何度か目を覚ました気がする。そのたびにまた眠りへ落ち、気づけば朝になっていた。
目を覚ますと、身体の奥に眠気が沈んだままだった。見慣れない白い天井を眺めながら、ここがどこなのか思い出せない。病室のドアが開き、看護師の「おはようございます」という声を聞いて、ようやく病院で眠っていたことを思い出した。
「保存的に経過観察します」とだけ説明されたが、私は、よく理解できなかった。特にやることもなく、ベッドの上で時間だけが過ぎていった。
点滴も外れたが、体を起こすにはまだ全身が痛く、頭の傷も響く。眠れたおかげで、体はだいぶ回復したような気がした。それでも、廊下を歩く足音が病室の前で止まるたび、無意識に息を潜めた。ドアが開き、看護師だとわかっても、強張った身体はすぐには動かなかった。
1週間と聞いてた入院期間の半分だ。
家に帰った後のことを考えなければ。
ここを出たら、誰も守ってくれない。
退院した朝、会社へ向かう人の流れの中へ、自分も戻るのだろうか。あの人と同じ建物で働き続けるのか、それとも全部捨てるのか。その答えだけは何ひとつ見つからない。
今まで当たり前だった毎日を、ひとつ残らず捨てなければ生きていけない気がした。
「知らなかったではすまされない」
大久保君に言われた言葉を思い出した。
窓から差し込む夏の光が白いシーツの上をゆっくり移っていく。その眩しさを見つめながら、五年も一緒にいたのに、私は何を見ていたのだろうと思った。
あの日々を思い返すたび、浮かぶのは決まって同じ場面だった。
藤崎さんに身体を求められるたび、それを愛されている証なのだと信じて疑わなかった私が愚かだったのかもしれない。耳元で囁かれる甘い言葉も、抱き締められる温もりも、今思えば、私はすべて愛情だと信じていた。
彼に強く抱き寄せられ、逃げ場のない熱が身の内へ深く入り込んでくる。圧倒的な存在に内側から塗り潰され、脳の芯が痺れるような感覚に襲われる。その痛いほどの充足に満たされ、自分が溶けてなくなってしまうような錯覚にただ溺れていただけだった。
——見たいものしか見ていなかった。
布団を頭まで被ると、暗闇の中で膝を抱え、息を潜めるように身体を縮めた。
男の子だったら。
藤崎さんによく似た顔で生まれてきて、幼い頃はどこへ行くにも私のあとをついてきて、少し大きくなっても変わらず私だけを見つめ、誰よりも私を必要としてくれるのだろうか。
もう二度と、ひとりにはならなくて済むのだろうか。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、眠れたことで少しだけ落ち着きを取り戻した真由が、これまでの五年間を振り返る場面を書きました。
そして、これから先の生活と、お腹の子のことを考え始めます。
真由が最後に思い描いた未来が、今後どうなっていくのか。
続きを読んでいただけたら嬉しいです。
今回の話についても、率直な感想やリアクションをいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




