第三十一話 眠りの前
眠れない真由のもとへ、大久保君が訪れます。
静かな病室で、二人の間に交わされた言葉とは。
「梶原さん?」
大久保君が面会に来てくれた時にも、背格好だけで藤崎さんと勘違いしてしまい、喉の奥から小さな悲鳴が漏れた。
「スマホにずっと連絡が来るの」
ベッド脇の椅子へ腰を下ろした大久保君が、小さく眉をひそめた。
「電源を落としたらいいじゃないか」
「でも……大事な連絡だったら困るし」
廊下ではワゴンの車輪が静かに転がり、どこかの病室からテレビの音が漏れてくる。その何気ない物音にさえ、私は肩を震わせてしまう。
「着信拒否にしなよ」
「触った瞬間に、また電話が鳴りそうで……」
枕元のスマートフォンから目を逸らしたままだった。
大久保君は小さく息をつき、困ったように笑う。
「僕がするから、貸して」
「今……鳴ってない?」
「鳴ってないよ」
大久保君は私のスマートフォンを受け取ると、「これ?」と着信画面を確認し、そのまま手際よく着信拒否の設定をした。続けてメッセージアプリも拒否設定に変えていく。
「……拒否したら、ここに来るんじゃ」
「病院には警備員さんにも事情が伝わってる。受付も警戒してくれてるから大丈夫」
「でも、あの人は来るわ」
「梶原さん」
「ほら、来る」
はっとして顔を上げると、大久保君と目が合った。
「梶原さん?」
「……眠れないの。ここに来られたら、逃げ場がないわ」
私は両手で顔を覆った。
——真由!!
そう叫びながら駆け込んでくる姿が、何度も頭に浮かんだ。病棟で時折響く大きな物音が、そのたびに藤崎さんの怒鳴り声のように聞こえてしまう。
「梶原さん。看護師さんには相談した? 軽い睡眠薬を出してもらえることもあるから、まずは寝よう」
大久保君は枕元のナースコールを押した。ほどなくして看護師が病室へ来ると、大久保君は私の様子を手短に説明してくれた。看護師は主治医へ確認しますと言い残し、病室を出ていく。
しばらくすると、看護師は、私の手のひらへ淡いだいだい色の小さな錠剤を載せてくれた。口へ含み、生ぬるい水で流し込む。かすかな苦味だけが舌の上へ残った。
「……大久保くん、お願い。ひとりにしないで。お願いなの」
私の声は、自分でも驚くほど弱々しかった。気づけば、大久保君のシャツの袖を指先でつかんでいた。
「眠ってる間に、藤崎さんが来たら……」
喉が詰まり、それ以上うまく言葉にならない。
「きっと来る……来るの。だから、お願い……帰らないで……」
「……梶原さんは……そうやって男を誘うの?」
私の袖をつかんだままの手へ一度だけ視線を落とした大久保君が、枕元へ手をつく。身体をかがめるようにして顔が近づき、その影が私を覆った。
「そういう意味じゃ……」
言い終える前に、言葉は喉の奥で途切れた。
浅い呼吸だけが静かな病室に響いていた。
大久保君の顔がゆっくりと迫る。
廊下を誰かが通り過ぎる足音が、遠くで一度だけ響いた。
「……冗談だよ」
大久保君は小さく笑って、ゆっくりと身体を起こした。
「薬が効けば、三十分くらいで眠くなるはずだから。眠ったのを見届けたら帰るよ」
その言葉は、まるで深い水の底から聞こえてくるように、ひどく遠く感じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、大久保君に助けを求める真由の姿を書きました。
藤崎さんへの恐怖が強くなる一方で、大久保君との距離も少しずつ変わっていきます。
二人のやり取りについて、どのように感じられたでしょうか。
率直な感想やリアクションをいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




