第三十話 逃げられない部屋
病院にいても、真由の緊張が解けることはありませんでした。
静かなはずの病室で、時間だけが過ぎていきます。
結局、一睡もできなかった。
消灯後も病室は静かになりきらず、ナースステーションから聞こえてくる話し声や、廊下を行き交う気配が途切れることはなかった。
そのたびに浅くなった意識が現実へ引き戻され、ようやく眠れそうになった頃には、また別の物音が耳へ届く。
枕元へ置かれたスマートフォンが、何度も小さく震えていた。
画面を点けるたび、そこには藤崎さんの名前が並んでいる。
着信。
着信。
メッセージ。
また着信。
——頼む。
——話を聞いてくれ。
——病院へ行っていいか。
短い文章が、時間を空けることなく積み重なっていく。
大久保君から「直接対応しないで」と言われた言葉が頭をよぎり、画面を見つめたまま指は動かなかった。
電源を切ってしまえば、この音から逃げられる。
それでも切れなかった。職場や警察、大久保君……誰かから連絡が入るかもしれないと思うと、その選択だけはできない。
ようやく思考が微睡みへ溶け始めた、そのわずかな時間だった。廊下からワゴンの車輪が床を転がる音が近づき、朝食が運ばれてきた。
空腹のはずなのに食欲はなかった。そういえば、昨日の夕食もまともに口へ運んでいない。それでも、少しでも食べておかなければと思い、私は箸を手に取った。
朝になっても、スマートフォンは時間を置いては鳴り続けた。
振動音が途切れるたびに静けさが戻り、ほんの数分もしないうちに、また小さく震え始める。画面には、藤崎さんの名前が並び続けていた。
藤崎さん
藤崎さん
藤崎さん
藤崎さん
藤崎さん
藤崎さん
藤崎さん
藤崎さん
藤崎さん
着信履歴は、どこまで見ても藤崎さんの名前ばかりだった。画面を見つめているだけで、指先が冷たくなっていく。
廊下から聞こえる足音に、思わず肩が強張る。
ナースコールが鳴るたび、誰かの話し声が近づくたび、救急車のサイレンが遠くをかすめるたび、また藤崎さんだったら――あの力で腕を掴まれた先を想像してしまい、息が詰まった。
看護師が病室を訪れるだけで、胸がざわつく。
扉が開く音に視線が吸い寄せられる。
——いる。
そう思った次の瞬間には、看護師が穏やかに微笑んでいた。
「昨夜は眠れましたか?」
「……大丈夫です」
午後になって面会時間が始まると、病棟は次第に人の気配で満ちていき、話し声や笑い声、ワゴンを押す車輪の音やナースステーションから聞こえる呼びかけが途切れることなく耳へ流れ込んでくる。
廊下を行き交う話し声や笑い声に紛れていても、近づいてくる足音だけは耳の奥へ真っ直ぐ響いてきた。そのたびに病室の前で立ち止まったような気配へ息を潜め肩を強張らせては、何事もなかったように遠ざかっていく音を聞いてようやく息を吐いた。
それでも次の足音が聞こえる頃には、もう一度息を止めていた。
カーテンの隙間から差し込んでいた午後の日差しは少しずつ傾いているはずなのに、病室の中だけ時間が止まってしまったようで、守られているはずのこの部屋が、どこにも逃げられない場所に思えた。
本当に時間が過ぎているのか、それとも私だけが同じ場所へ取り残されているのか、その区別さえ少しずつ曖昧になっていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、藤崎さんからの連絡が続く中で、真由が病室にいても落ち着けなくなっていく様子を書きました。
守られているはずの病室さえ、安心できる場所には感じられなくなっています。
真由が少しでも休めるようになるのか、続きを読んでいただけたらと思います。
今回の話についても、率直な感想やリアクションをいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




