第二十九話 声の残響
騒ぎが過ぎ去った病室で、真由はこれからのことを考えることになります。
そして、大久保君からひとつの提案をされます。
病室の扉が閉まると、さっきまでの騒がしさが嘘のように遠ざかっていった。
それでも耳の奥には、藤崎さんの声だけがいつまでも残っている。
被害届を出さないでくれという懇願も、二人目が生まれるのだと告げた言葉も、何度も胸の内で繰り返された。
目を閉じても、その声は消えない。
「梶原さん」
看護師が私の顔をそっと覗き込み、気分や吐き気、めまいの有無を一つひとつ確かめていく。大丈夫だと答えると血圧を測り、他に異常はないかと尋ねられた。
一瞬だけ、お腹の奥へ意識が向いた。
あの小さな違和感が頭をよぎる。けれど、まだ衝撃が残っているだけなのだと思い、私は何もありませんと首を横に振った。
あとで警察が話を聞きに来るらしかった。病院からはすでに警察へ連絡が入り、事情も伝えられているという。
廊下を走るストレッチャーの車輪の音が遠くで響き、私は掛け布団の端を指先で握り締めた。
そして、安全のため病室を移すことが決まったと告げられる。先ほどのようなことが二度と起きないよう、すぐに部屋を移るという。
大久保君は面会時間が終わるぎりぎりまで病室を離れなかった。
時折スマートフォンへ短く返信しながらも、看護師からの説明には耳を傾け、必要なことは私に代わって確認してくれた。スマートフォンをポケットへしまい、静かに口を開く。
「梶原さん。これから藤崎さんから電話やメッセージが来ても、直接対応しないで」
「……でも」
「今日の様子を見る限り、冷静に話し合える状態ではないだろ?」
少し間を置いてから、大久保君は続けた。
「一つ提案したいんだが、本格的に代理人を立てないか?」
「代理人……?」
「弁護士だよ。窓口を代理人に一本化すれば、藤崎さんは梶原さんに直接連絡できなくなる。会社との連絡も……。少なくとも、交渉はすべてこちらで受けられる」
「でも……そんな大事にしたいわけじゃないの」
大久保君は、疲れたように視線を落とした。
「だからこそだよ」
「え?」
「大事にしたくないなら、なおさら当事者同士で話さない方がいい。こういうのは弁護士を通した方が、案外すんなり収まることも多い」
何も言えなかった。
電話に出たのは私だ。その結果が、さっきの騒ぎだった。
視線は自然とシーツの皺へ落ち、その行き先だけをぼんやりと追う。
「もちろん、俺でもいいし、信頼できる先生を紹介することもできる。そこは梶原さんが決めればいい」
「……ちょっと考えさせてくれる?」
「勿論」
大久保君は目を細め、口元だけで小さく笑い、それでも時間が経つほど話は長引くから、できるだけ早く決めた方がいいと静かに念を押した。
それから顎へそっと指を添え、しばらく視線を落とした。ふと腕時計へ目をやると、小さく頷いた。
「また来るよ」
それだけ言い残し、大久保君は病室をあとにした。
扉が閉まりきる、そのわずかな隙間からだった。
「これからが楽しみだから」
小さく呟く声が聞こえた気がして、私は思わず顔を上げた。
けれど廊下には、閉まりかけた扉しかなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、藤崎さんとの直接のやり取りを避けるため、大久保君から代理人を立てることを提案される場面を書きました。
真由にとっては、まだ簡単には決められないことなのだと思います。
そして最後に、大久保君の意味深な一言を残しました。
ここから真由の周囲がどう動いていくのか、続きを読んでいただけたらと思います。
今回の話についても、率直な感想やリアクションをいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




