第二十八話 知らない人
静かな病室に、思いがけない訪問者が現れます。
真由がそこで聞くことになる言葉は、予想と違うものでした。
廊下から配膳車の音が近付いてきた。看護師が夕食を運んできたことで、いつの間にか夕方になっていたことを知る。窓の外は、茜色を失い始めていた。オーバーテーブルには夕食が置かれていたが、箸を手に取る気にはなれなかった。
「梶原さん?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、ドアの隙間から大久保君が遠慮がちに顔を覗かせ、その後ろには三十代半ばほどの女性が立っていた。両手には量販店の袋がいくつも提げられている。
「失礼します。法律事務所で事務をしております、加藤と申します。」
「着替えとか歯ブラシとか、必要そうなものを買ってきたよ。女性の物は僕じゃ分からなくて、加藤さんに付き合ってもらったんだ」
「すみません」
ベッドの上で姿勢を整えようとしただけで、全身がずきりと痛み、私は思わず顔をしかめた。
「いいよ。無理しないで」
「始めてで、どうしたらいいのか分からなかったの。ありがとう。加藤さんもすみません」
充電器も買ってきてくれていた。量販店の袋から取り出された小さな箱がオーバーテーブルへ置かれ、切れたままだったスマートフォンもようやく使えるようになるのだと思うと、胸の中に少しだけ安堵が広がる。着替えや歯ブラシ、化粧水や乳液まで揃えられていて、女性の物は分からないからと加藤さんが一緒に選んでくれたらしい。その気遣いがありがたく、私は何度も礼を口にした。
穏やかな空気が病室を満たしていた。
だからこそ、何の前触れもなく病室のドアが開いた瞬間、その静けさはあまりにもあっけなく破られた。
「真由!!」
聞き慣れた声に、私は反射的に顔を上げた。
そこに立っていたのは、藤崎さんだった。
肩で荒く息をつき、額には汗が滲んでいる。ネクタイは少し緩み、乱れた前髪が額へ張り付いていた。その姿は、いつも会社で見せていた落ち着いた藤崎さんとは別人のようだった。
「……藤崎さん」
大久保君は驚いたように私を振り返った。
「……連絡したの?」
「あ……電話が掛かってきて……仕事の件でって……」
大久保君の制止を振り切るように、藤崎さんが私のベッドへ駆け寄ってくる。
「真由!」
次の瞬間、両肩を強く掴まれた。
「っ……!」
傷口へ響くような痛みに思わず顔をしかめる。
「被害届なんか出さないよな?」
揺さぶられるたび、吐き気が込み上げる。
「おい、やめろ!」
大久保君が藤崎さんの腕を掴んで引き離そうとするたび、肩へ食い込む指先だけがいっそう強くなっていった。
「加藤さん、看護師さんを呼んでください!」
「はい!」
「十月には本社へ戻るんだ!」
その声は懇願とも命令ともつかないほど切迫していた。
「二人目も生まれるんだよ。頼む……そんなことしないよな?」
二人目。
その言葉だけが、何度も反響する。
妻がいる。
子がいる。
そして、もう一人、生まれてくる子どもまでいる。
乱暴に揺さぶられるたび、頭の奥で鈍い痛みが脈打つ。その苦痛よりも、目の前の男が口にした現実の方が、私を深く打ちのめしていた。
「やめて……」
藤崎さんの手を払おうとしても上手く力が入らなかった。
「手を離してください」
大久保君の声が低く響く。
「梶原さんへの接触はやめてください。これ以上続けるなら、警察を呼びます」
廊下を駆ける足音が次々と近付き、病室は一瞬にして騒然となった。
駆け込んできた警備員が藤崎さんの腕を取り、病室の外へ促していく。それでも藤崎さんは何度も私の名を呼び、引き離されながら何度も振り返っていた。
私が五年間愛してきた藤崎さんは、もうどこにもいなかった。目の前にいるのは、自分の未来だけを守ろうとする、一人の知らない男だった。
「藤崎さん」
ベッド柵を握る指先へ静かに力を込める。
「もう来ないでください」
その一言を口にした瞬間、五年間という長い時間は、涙ではなく、取り返しのつかない静けさとなって私の胸へ降り積もっていった。
息を吐いた拍子に、私の奥が小さく軋んだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、入院中の真由のもとへ大久保君と加藤さんが訪れ、その後、藤崎さんが現れる場面を書きました。
「二人目」という言葉によって、真由は自分が知らなかった現実を改めて突きつけられます。
そして最後に、五年間続いた関係へ、自分の言葉で区切りをつけました。
ここまで読んでくださった方にも、いろいろと思うところがある回だったかもしれません。
率直な感想やリアクションをいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




