第二十六話 心拍
事故の翌朝、真由は少しずつ現実と向き合うことになります。
そして、まだ確かめていなかったもののもとへ向かいます。
翌朝、まだ眠気の残る病室へ、控えめなノックの音が響いた。
看護師に続いて入ってきたのは、スーツ姿の男性と制服姿の警察官だった。
看護師は私の顔色を確かめるように一度だけ視線を向けると、頭部外傷で入院中であることを伝え、体調を見ながら手短に済ませてほしいと二人へ静かに告げた。
「体調はいかがですか。少しだけ、昨日のことをお伺いしてもよろしいでしょうか」
頭はまだ重く、動かすたび鈍い痛みが広がる。それでも私は小さく頷いた。
昨日のことを順を追って尋ねられるたび、昨夜の記憶が少しずつ形を取り戻していく。思い出したいわけではないのに、口へ出すたび胸の奥だけが重く沈んでいった。
一通り話し終えたあと、私は思わず警察官を見た。
「……藤崎さんは?」
病室に短い沈黙が落ちる。
年配の警察官は少しだけ表情を曇らせ、それから落ち着いた口調で答えた。
「現在、お話を伺っています。」
それだけだった。
けれど、その一言だけで、昨夜の出来事がもう私たち二人だけの問題ではなくなってしまったことを、私は嫌というほど思い知らされた。
警察官たちが病室を出ると、部屋はまた静けさを取り戻した。
入れ替わるように看護師が姿を見せる。
「梶原さん、産婦人科の先生がお待ちです。」
その一言に、胸の奥が小さく震えた。
お腹の子のことを、まだ何も聞いていない。
「車椅子でお連れしますね。」
私は小さく頷くと、看護師に身体を支えられながらゆっくりと車椅子へ移った。立ち上がっただけで頭の奥が鈍く痛み、視界がわずかに揺れる。
看護師に押され、車椅子がゆっくりと動き始めた。
病棟を出ると、病院の朝はもう始まっていた。診察を待つ患者が長椅子へ静かに腰を掛け、白衣の医師や看護師が慌ただしく行き交っている。いくつもの診療科の案内板が視界を横切り、その様子を眺めながら、私は初めてここが総合病院なのだと実感した。
救急車へ運び込まれてから今まで、目に映るものは白い天井と照明ばかりだった。こうして人の行き交う景色を見て初めて、自分が現実の中へ戻ってきたような気がする。
やがて車椅子は「産婦人科」と書かれた診察室の前でゆっくり止まる。
診察室へ入ると、三十代前半ほどの若い男性医師が穏やかな表情で迎えた。
「昨日は大変でしたね。今日は赤ちゃんの様子を診せてください」
看護師に促され、診察台へ横になる。
天井を見つめていると、冷たいゼリーがお腹へ広げられた。
医師はモニターへ視線を向けたまま、プローブをゆっくりと動かしていく。
診察室には機械の音だけが流れていた。
画面のことは何も分からない。分かるのは、医師の表情だけだった。
モニターを見つめたまま数秒黙り、私へ顔を向ける。
「今のところ、お子さんの心拍ははっきり確認できています」
知らないうちに詰めていた息を、ようやく吐いた。
けれど、医師はすぐに言葉を続ける。
「ただ……転落による強い衝撃を受けていますし、妊娠初期でもあります。今の時点で大丈夫とは言い切れません」
唇を噛んだ。
「しばらくは安静が必要です。腹痛や出血があれば、すぐに教えてください。数日後にもう一度、赤ちゃんの状態を確認しましょう」
「……はい」
返事をしながら、私はもう一度だけモニターへ目を向けた。
映っている小さな命が、本当にそこにいるのかどうか、それさえよく分からなかった。
もう手放すしかないと思っていたはずなのに、その一言を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく揺れた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、事故の翌朝に警察から事情を聞かれ、その後、産婦人科でお腹の子の状態を確認する場面を書きました。
自分ではもう手放すつもりだったはずのものが、思いがけず目の前に残っている。
真由の中で、少しずつ何かが変わり始めています。
今回の話についても、率直な感想やリアクションをいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




