第二十五話 病室の静寂
事故のあと、真由が目を覚ました場所は病院でした。
そこで初めて、少しずつ現実が動き始めます。
遠くでサイレンが鳴っている。
重い瞼をゆっくり持ち上げると、白い天井が思っていたより近くにあった。眩しい照明の光に思わず目を細め、その横では透明なチューブが車の揺れに合わせて小さく揺れている。
「分かりますか」
青い救急服の隊員が私を覗き込んでいた。
「お名前、言えますか」
「……梶原、真由です」
名前を答えると、頭は痛くないかと聞かれた。痛い、と答えるだけで頭の奥がずきりと脈打つ。続いて気分は悪くないかと尋ねられ、少しだけ、と掠れた声で返すと、「もうすぐ病院に着きますから」と静かな声が耳へ届いた。
「首は動かさないでくださいね」
そんな声が聞こえ、顎の横へ添えられた手が固定具を確かめるように軽く触れた。
腕が締めつけられる感覚と、小さな電子音だけが狭い車内へ静かに響いている。
「梶原さん」
聞き覚えのある声にゆっくりと目を向けると、救急隊員の向こうに大久保君の姿があった。ワイシャツはところどころ汚れ、右肘にはガーゼが巻かれている。私と目が合うと、強張っていた表情がほんの少しだけ緩んだ。
救急車が止まると、ストレッチャーはそのまま建物の中へ押し込まれた。眩しい照明が次々と頭上を流れていき、誰かが私の名前を呼び、誰かが頭の傷を確認し、誰かが「CTを先に」と言う声だけが慌ただしく耳へ入ってくる。
首は動かないように固く支えられ、身体はベッドへ固定されたまま、腕が締めつけられたり指先へ何かを付けられたりする感覚だけが断片的に残っていた。
何をされているのかは分からない。ただ、私の周りだけが忙しく動いていて、そのたびに白い天井と白い照明が何度も入れ替わっていく。
医師が何か説明していた気がする。頭を打ったこと、しばらく入院すること、そのくらいしか頭へ入ってこないまま、私は病棟へ運ばれていった。
病室は一人部屋だった。運ばれてきたばかりの部屋には人の気配もなく、閉まった扉の向こうから、ときおり足音や台車の音が遠く聞こえてくるだけだった。点滴の雫をぼんやり眺めているうちに、病院の中にいるというより、どこか別の場所へ切り離され、その静けさだけが少しずつ胸の内へ入り込んでくるようだった。
廊下から、ときおり足音と誰かの話し声が聞こえてくる。そのたびに静寂はすぐ元へ戻り、病室にはまた時間だけがゆっくりと流れ始めた。
その静けさの中で、不意にあの廊下の光景が浮かぶ。
ようやく聞けたのだと思った。結婚しているのか、お腹の子をどうするのか、何ひとつ聞けずに終わるはずだったことを、私は確かに口にした。それでも思い出すのは返ってこなかった言葉ではなく、あんな表情をした藤崎さんを初めて見た、ただそのことだった。
——本当に結婚してたんだ。
その事実だけが、静かな病室で何度も胸の奥へ沈んでいく。
目を閉じると、熱を持った雫が頬をゆっくりと伝った。
廊下の気配と一緒に、小さな声が部屋へ入ってきた。
「梶原さん?」
目を向けると、大久保君が開ききらない扉に手を掛けたまま立っていた。
「大久保君。ごめんね」
「いや、それより気分は?」
「うん。大丈夫」
「入院の手続きは、書けるところまで済ませておいたよ。病院の人には、ご家族への連絡は明日、梶原さん本人からするって伝えてある」
「ごめんね」
「あと、警察が来てる」
「……警察?」
「うん。僕は事情を話した。梶原さんも、明日になったら話を聞かせてほしいって言われてる」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が病院で目を覚まし、事故のあとに何が起きたのかを少しずつ知っていく回でした。
そして最後に、大久保君から告げられた「警察」という言葉。
ここからまた、真由を取り巻く状況が変わっていきます。
今回の話についても、率直な感想やリアクションをいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




