第二十四話 沈黙のあとで
ここまで積み重ねてきたものが、少しずつ崩れていく回です。
真由が抱えていたものは、もう胸の中だけでは収まりきらなくなっていました。
彼女が最後に何を口にするのか、読んでいただけたらと思います。
「……誰だよ、その男」
低く押し殺した声だった。
その声に、大久保君が足を止めた。
何を言われたのか一瞬理解できず、立ち尽くす。
藤崎さんは部屋の前を離れると、真っ直ぐ私のほうへ歩いてきた。その目は一度も逸れることなく私だけを捉え、距離が縮まるたび、息が詰まる。思わず半歩身を引くと、踵が階段の縁へ触れた。
「大学の同級生です」
大久保君は落ち着いた声でそう答えた。
「雨がひどかったので、途中まで送ってきました」
「俺は、真由に聞いてるんだ」
大久保君が口を開きかけた、その言葉を遮るように藤崎さんの声が廊下へ響いた。
「ちがっ……スーパーで偶然――」
言い終える前に、頬へ鋭い衝撃が走った。
視界が一瞬白く弾ける。
何が起きたのか理解する間もなく身体が大きくのけぞり、踏み出した足は何もない空を踏んだ。
「梶原さん!」
大久保君の声が聞こえた。背中が段差へ叩きつけられた。視界が反転し、身体は何度も段差を転がり落ち、そのたびに痛みと焼けるような熱だけが駆け抜けていく。
気がつくと、踊り場で大久保君に上半身を支えられていた。息をするたび胸の奥が痛み、視界がゆっくりと揺れている。
「梶原さん、大丈夫?」
声は聞こえるのに、うまく返事ができない。
「梶原さん」
「……ちゃんと言うんだ」
返事もできず、大久保君を見つめることしかできなかった。
「君は、どうしたいんだ」
「真由、こっちにおいで」
藤崎さんは私を見据えたまま、こちらへ来るようにほんのわずかにうなずいた。その仕草を見ると、立ち上がろうとして膝へ力が入る。
「行かなくていい」
大久保君が静かに言う。
「ちゃんと伝えるんだ。君が知りたいことも、君が伝えなきゃいけないことも」
大久保君の言葉が耳の奥に残る。
本当に、口にしてしまっていいのだろうか。ただ、このまま何も言えなければ、私はまた飲み込んでしまう。結婚しているのか、この子をどうすればいいのか、この先どう生きればいいのか。何ひとつ聞けないまま終わってしまう気がした。
唇を開くまでに、長い時間がかかった気がした。
「……藤崎さん」
声が震えた。
「結婚してるって、本当なんですか」
藤崎さんは何も言わない。
その沈黙だけが、胸を締めつけた。
「私……妊娠してるんです」
口にした瞬間、それまで喉の奥へ押し込めていたものが堰を切ったように溢れ出し、涙で滲んだ視界の向こうで藤崎さんの表情はもう輪郭しか見えなかった。
「あなたの子なんです」
息を吸おうとしても胸が苦しく、続きがどうしても声にならなかった。
「どうしたらいいのか、分からないの……」
返事は聞こえなかった。
「もしもし、救急です。女性が階段から転落しました。意識はあります。でも、早く……早くお願いします」
聞き慣れた落ち着いた声はどこにもなく、途切れそうになる息だけが耳へ届いた。
廊下の向こうで扉の開く音が続き、慌ただしい足音と、「どうしたの」「誰か落ちたの?」という戸惑った声が重なる。
誰かが私の名前を呼んでいる。
その声が大久保君なのか、藤崎さんなのか、それとも別の誰かなのか、もう分からない。ただ、頭の奥だけが脈打つ。
その痛みだけを残して、意識はゆっくりと遠のいていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由がこれまで言えずにいたことを、ようやく自分の言葉にする場面までを書きました。
ここまで読んでくださった方の中には、「もう誰かに話してよ」「どうして言わないの」と、真由にもどかしさを感じていた方もいらっしゃるかもしれません。私自身も、書きながら真由にはもう少し頑張ってほしいと思うことがあります。
それでも、真由にとっては、何かを決めることよりも、今まで信じていたものが崩れていくことのほうが大きかったのだと思います。
そして今回、ようやく「結婚してるって、本当なんですか」と本人に問いかけました。
さらに、妊娠していることも伝えました。
ここから真由を取り巻く状況は、大きく変わっていきます。
今回の話を読んで、何か感じていただけましたら、「真由、バカじゃないの?」でも構いませんので、率直な感想やリアクションをいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。




