第二十三話 雨の帰り道
帰るだけだったはずの夜に、思いがけない出来事が重なっていきます。
いつもと同じように過ごしているつもりでも、真由の周りでは少しずつ何かが変わり始めていました。
そして、最後に待っていたのは、思いがけない問いかけでした。
ビアガーデンは予定の時間を迎え、一本締めとともにお開きになった。
「じゃあ、また来週」
「気をつけて帰ってね」
そんな声があちこちで交わされるなか、店の前には自然といくつもの輪ができていく。
二次会へ向かう人たちは近くの居酒屋の名前を挙げながら人数を数え、明日の予定がある人や家族が待っている人は、それぞれ駅のほうへ歩き始めた。
何人かと言葉を交わしながら、その輪の外へ少しずつ身を引いていく。
「梶原さんも二次会どうですか」
そう声を掛けられ、軽く首を振る。
「今日は帰ります」
「えー、まだ九時前ですよ」
誰かが笑い、別の同僚が夜空を見上げた。
「雨、降るみたいですよ。駅まで行くなら、二次会で時間つぶしたほうがいいんじゃないですか」
空にはまだ星も見えない。ただ、湿った風だけが頬を撫でていく。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
そう答えると、私はもう一度だけ頭を下げ、人混みから静かに離れた。
改札を抜け、ホームへ降りた。滑り込んできた電車へ人の流れに紛れるように乗り込み、空いていた窓際の席へ腰を下ろす。窓の外では、流れていく街の灯りが夜の景色へ溶け込んでいた。
今夜は藤崎さんが家へ来る。暑気払いのあと、そのまま寄ると言っていた。
冷蔵庫にはほとんど何も入っていない。スーパーで何かつまめるものを買っておいたほうがいいだろう。それに、ワインを飲みたいと言い出すかもしれない。
ワイン売り場の前で足を止める。
私はワインのことなんて、よく分からない。
ただ、藤崎さんが教えてくれたことだけは、ぼんやりと覚えていた。
赤なら辛口。チリ産は値段のわりに美味しいものが多いこと。ワインは高ければいいというものではないこと。それから、学生の頃に読んだ『日はまた昇る』に憧れて赤ワインを飲み始めたのだと、少し照れくさそうに話していたこと。
私も読んでみようと思った。けれど、そのまま今日まで読むことはなかった。
何も分からずラベルを見比べていた私を見て、「真由にはまだ早いよ」と笑っていた藤崎さんの横顔が、不意に浮かんだ。
棚へ並ぶボトルを一つひとつ見渡し、「辛口」と書かれたチリ産の赤ワインを見つけると、そっと買い物かごへ入れた。
「梶原さん?」
不意に名前を呼ばれ、振り返ると、大久保君だった。仕事帰りかと尋ねられ、小さく頷く。
大久保君も今日は少し遅くなったのだと苦笑し、少し間を置いてから、あれからどうだったのかと私を気遣うように尋ねてきた。
「何にもないよ」
そう答えながら、買い物かごへ目を落とした。チーズと生ハム、それにサラダと赤ワイン。
仕事の話やビアガーデンでの出来事をぽつりぽつりと話しているうちに、そのまま並んでレジへ向かった。
スーパーを出ると、スコールのような雨が降っていた。ビアガーデンで雨になるとは聞いていたけれど、舗道を白く煙らせるほどの勢いだとは思わなかった。
「でも……」
言いかけた私に、大久保君は家までどれくらいかかるのかと尋ねた。
歩いて十分ほどだと答えると、彼は降りしきる雨へ目を向け、小さく息をつく。
「それなら送るよ。この雨じゃ、すぐびしょ濡れになる」
雨脚は少しも弱まる気配がなかった。
「じゃ、ごめんね」
そう言って、傘に入った。
傘を打つ雨音は途切れることがなく、世界からほかの音を少しずつ奪っていくようだった。
大久保君は私の持っていた買い物袋を受け取ると、「濡れるといけないし」とだけ言い、思わず「ごめん」と返した私を見て少し肩をすくめた。
「謝ってばかりだね。梶原さんは」
「そう?」
「学生の頃は、今ほど謝ってなかった気がするけど」
大久保君は荷物を持ち直しながら言った。
「そういえば、あの友達、その後どうなった?」
不意にそう聞かれ、友達の話として相談したことを思い出した。
「うん。中絶するみたい」
「そうか」
返す言葉も見つからず、傘を打つ雨音だけが絶え間なく耳に残る。
「相手には言えたのかな」
「まだみたい」
大久保君は一度だけ私を見て、それきり前を向いた。
「言うべきだと思うよ」
それからは互いに口を開くこともなく、雨音だけを聞きながら歩いているうちに、マンションのエントランスへ着いていた。
エレベーターには「故障中」の紙が貼られていた。
こんな日に限って。
「何階?」
「五階」
「じゃあ、そこまで運ぶよ」
断る間もなく歩き出した大久保君のあとを追い、私たちは非常階段を上り始めた。
息を整えながら五階へたどり着き、非常階段の扉を開けて廊下へ出ると、部屋の前に立っていた藤崎さんと目が合った。
藤崎さんの視線が、私の隣に立つ大久保君へゆっくりと移る。
「……誰だよ、その男」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、暑気払いを終えた真由が帰宅するまでの出来事を書きました。
藤崎さんが来ると分かっているから、ワインを選び、チーズや生ハムを買う。そんな何気ない買い物の中にも、真由にとっては五年間の記憶が残っています。
一方で、大久保君には「何にもない」と答えてしまう。
本当は何もないどころか、抱えていることは増えているのに、それを言葉にすることができないままです。
大久保君から「言うべきだと思うよ」と言われても、真由はまだ自分から動くことができません。
そして、雨の中を送ってもらった先で、思いがけず藤崎さんと鉢合わせすることになりました。
ここから、藤崎さんの強い所有欲が表に出てくることになります。
真由がまた何を言えずにいるのか、藤崎さんがこの状況をどう受け取るのか。そのあたりも含めて、続きを読んでいただけたらと思います。
もし今回の話を読んで、何か思うところがありましたら、「真由、もう少し頑張って」といった一言でも構いませんので、リアクションや率直なご感想をいただけると嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




