第二十二話 おめでとうございます
決められないままでも、時間だけはいつも通りに過ぎていきます。
会社では暑気払いが開かれ、周囲ではいつものように笑い声が続いている。
その輪の中で、真由はひとり、自分だけが別の場所にいるような感覚を抱えていました。
そして、その夜、思いがけない言葉が会場に響きます。
結局、その日のうちに産婦人科へ向かうことはできなかった。
診療時間も終わりに近づいていたし、今日は会社の暑気払いへ参加することも決まっていたのだから仕方がないのだと、自分へ何度も言い聞かせた。
けれど、紹介状は最後まで鞄の中に入ったままだった。
そうして先延ばしにしても、次の日は何事もなかったようにやって来る。
終業後、会社では予定どおり暑気払いが開かれた。会場は会社近くのビルの屋上にあるビアガーデンだった。長机の上には枝豆や唐揚げ、大皿の料理が次々と並べられ、会場の端では焼き鳥やローストビーフを切り分けるコーナーへ人だかりができている。
仕事から解放された笑い声と乾杯の声が絶え間なく交錯し、隣のグループが何を話しているのかも断片的にしか耳へ届かなかった。私は烏龍茶の入ったグラスを両手で包むように持ち、ときおり相槌を打ちながら、その輪の中にいるふりだけを続けていた。
誰かが夏季休暇の予定を話し始めると、別の誰かが子どもの夏休みのことを口にする。笑い声の合間には、先日の発注ミスや新人社員の失敗談が挟まり、そのたびにあちこちの席から笑いが起きた。
空になったグラスが下げられ、無意識に新しいグラスを手に取り、一口だけ口へ含む。
……違う。
喉へ流れた瞬間、焼酎の匂いが鼻へ抜けた。
「あ、これ……」
思わずグラスを見下ろした。
近くにいた同僚は私の反応を見ると、少しくらい飲んでしまえばいいじゃないか、と笑って言った。私はその場に合わせて笑い、グラスの中の氷をマドラーでゆっくりとかき混ぜた。
妊娠しているから飲めない。ただ、それだけを口にすれば済む話だった。それなのに、その一言だけはどうしても言えず、私はグラスについた水滴を親指でゆっくりとなぞった。
産むのか、それとも産まないのか。それすら決められていない私には、その事実を誰かへ打ち明けることさえ、まだできないような気がしていた。
今夜、藤崎さんが家へ来る。
きっと、ひどく酔ったまま来るのだろう。そんな状態で、妊娠のことを話せるはずない。
そのとき、不意に「おめでとうございます!」という歓声が会場の向こうから上がった。思わず視線を向けると、歓声の聞こえてきた先には、藤崎さんのいるテーブルがあった。
何かあったのだろうか。
人だかりができていて、誰かが藤崎さんの肩を叩き、グラスを掲げているのが見える。そのたびに笑い声が重なり、「おめでとう」という言葉だけが、騒がしい会場の中から何度もこちらへ流れてきた。
誰かが何かを話しているようだったが、周囲の笑い声や食器の触れ合う音にかき消され、肝心の内容までは聞き取れない。
私はウーロンハイの氷をかき混ぜながら、その様子をぼんやりと眺めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由がまだ何も決められないまま、周囲の人たちがいつも通りに過ごす暑気払いの席にいる場面を書きました。
妊娠のことも、藤崎さんとのことも、これからのことも、真由はまだ誰にも話せていません。
「いい加減、誰かに話したらいいのに」と思われる頃かもしれませんね。
真由自身も、それは分かっているのだと思います。それでも動けない。そんなところに、今の彼女の弱さがあるのだと思います。
もしかすると、ここから先も真由の行動に「もう!」と思われることがあるかもしれません。
そのときは、どうか遠慮なく心の中で突っ込んでください。
それも含めて、この先の真由を見届けていただけたら嬉しいです。
そして、今回最後に聞こえてきた「おめでとうございます」が何を意味するのか。
続きを読んでいただけたらと思います。
もし何か感じていただけましたら、リアクションや率直なご感想などいただけると嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




