第二十話 問い
仕事をしているふりをしながら、真由の意識は別のところにありました。
いつもと変わらない職場の風景の中で、ひとつのことだけが頭から離れない。
そして仕事を終えたあと、真由はある場所へ向かいます。
そこで、これまで曖昧なまま抱えていたことと、もう一度向き合うことになります。
昼休みを終え、自分の席へ戻ると、課長が藤崎さんへ声を掛けているのが目に入った。
藤崎さんは手元の資料から顔を上げ、小さく頷いて立ち上がる。二人が並んでミーティングルームへ向かい、ガラス張りの扉の向こうへ姿を消していくのを目の端で追った。
席へ着き、パソコンの画面を開くと、メールを確認するためにマウスへ手を伸ばしても、意識だけはガラス越しのミーティングルームから離れなかった。仕事へ向き合おうとするたび、気づけば目は何度もそちらへ向いていた。
周囲へさりげなく目を配り、背後に誰もいないことを確かめると、机の下でスマートフォンを取り出した。
検索欄へ指を滑らせ、見られないよう急いで文字を打ち込んだ。
**妊娠 九週**
画面には、「心臓は規則的に拍動しています」「指や足先も少しずつ形になってきます」「大きさは、さくらんぼからぶどうくらいです」という説明が並んでいる。
さくらんぼ。
ぶどう。
普段なら季節の果物としてしか見ていなかった名前が、今はお腹の中で育っている命の大きさとして目の前にあった。
私は画面を閉じることも、スクロールすることもできず、ただその小さな姿を見つめ続けていた。
仕事を終えた私は、人の流れに紛れるように会社をあとにし、駅へ向かう人波とは反対の道へ足を向け、何も考えないと自分へ言い聞かせながら歩き続けていた。
赤信号に足を止めた時、ポケットの中でスマートフォンが小さく震えた。
取り出した画面には、藤崎さんの名前。
『明日の暑気払いはいくの?』
赤信号の前で立ち止まったまま、私は『うん』とだけ返すと、ほどなくして『暑気払いの後に行くよ』と届いた。返す言葉が見つからず、しばらく画面を見つめた末に、『はい』と二文字だけ打ち込んだ。
明日の予定を話している藤崎さんと、今日、中絶の相談をしに向かっている私。送信を終えて画面を閉じても、その距離だけは、画面を閉じたくらいでは消えてくれなかった。
クリニックへ着くと、自動ドアが静かに開いた。外の蒸し返す暑さとは対照的に、冷房の効いた空気が頬を撫でる。待合室には数人の患者が腰を掛け、控えめな音量で流れるオルゴールだけが静かに響いていた。
私は受付へ歩み寄ると、自然と声を潜めるように名乗った。
「梶原真由です」
受付の女性は診察券を受け取ると、一度パソコンへ目を落とし、何かを確認してから奥へ声を掛けた。
間もなく、奥から看護師が姿を現した。
五十代半ばほどの、少しふくよかな女性だった。目が合うと、穏やかに微笑みながら私の名前を呼ぶ。
「梶原さんですね」
私の返事を待って小さく頷くと、一度待合室を見渡し、声の調子を少し落とした。
「少し奥でお話ししましょうか」
私は黙って頷き、看護師の後についていった。
案内されたのは、診察室のさらに奥にある小さな面談室。机を挟んで向かい合い腰を下ろすと、看護師は一冊のパンフレットと紹介状を机の上へ静かに置いた。
「お昼にもお話ししましたが、当院では人工妊娠中絶は行っておりません」
看護師は穏やかな口調のまま説明を続けた。
「こちらが紹介状です。この産婦人科で対応されています」
紹介状には、このクリニックから電車で二駅ほどの場所にある中規模の産婦人科の名前が記されていた。
「お昼にもお伝えしましたが、妊娠週数が進めば進むほど、梶原さんご自身の身体への負担も大きくなります」
看護師は私の表情を窺いながら、言葉を選ぶように続けた。
「もちろん、すぐに結論を出してくださいという意味ではありません。ただ、初期中絶を希望されるのであれば、あまり時間に余裕はありません」
紹介状から目を離せないまま、私は返事をすることができなかった。
紙に印字された病院名を見つめているうちに、胸の奥へ押し込めていた言葉が、ぽつりと口をついて出る。
「……私、産んだほうがいいのでしょうか」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が妊娠九週の時期にあることを改めて意識し、お腹の中の子どもの存在を、少しずつ具体的なものとして感じ始める場面を書きました。
「さくらんぼ」や「ぶどう」という大きさの説明も、それまでなら何気なく聞き流していた言葉だったはずなのに、今の真由にとっては、自分のお腹の中にいる小さな命を想像するための言葉になっています。
その一方で、藤崎さんから届く「明日の暑気払いはいくの?」という何気ないメッセージは、真由が今まさに向き合おうとしている問題との距離を浮かび上がらせています。
藤崎さんにとってはいつもの予定の話でも、真由にとっては人生を左右することを考えている最中。その温度差を書きたかったところです。
そして最後に、真由は初めて、自分だけでは答えを出せない問いを誰かに口にしました。
この先、真由がどんな答えを探していくのか。続きを読んでいただけたら嬉しいです。
この作品は重いテーマを扱っているため、すべての方に受け入れていただける作品ではないと思っています。また、真由の考え方や行動を、もどかしく感じる方もいらっしゃるかもしれません。
それでも、ここまで読んでくださったことを本当にありがたく思っています。
もし何か感じていただけましたら、リアクションや率直なご感想などいただけると励みになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




