第十九話 選択の前で
時間だけが、何も待ってはくれないまま過ぎていきます。
真由はまだ、自分がどうしたいのかを決められずにいました。
それでも、いつまでも立ち止まっていることはできません。
あの日から数日が過ぎた。
私は、一番伝えなければならないことを腹の奥へ抱えたまま、いつもと変わらない毎日を過ごしていた。
会社へ行き、仕事をして、帰宅する。
それでも、ふとした瞬間にお腹へ手を当てるたび、こうしている間にも、この子は少しずつ育っているのだと思い知らされる。
……言わなくちゃ。
そう思うたび、藤崎さんの顔が浮かび、大久保君の「知らなかっただけでは済まない」という言葉まで思い出してしまう。
木曜日の昼休み、私は財布から診察券を取り出し、人目を避けるように非常階段へ出た。
鉄製の扉が閉まる音と同時に、職場の話し声は遠ざかり、冷たいコンクリートの空気だけが私を包む。
診察券へ書かれた番号を見返しながら、震える指で発信ボタンを押した。
数回のコールのあと、若い女性の声が聞こえた。
「お電話ありがとうございます」
電話の向こうでは、小さな赤ちゃんの泣き声と、オルゴールの優しい音色がかすかに重なって聞こえてくる。
「すみません……」
息を整えてから口を開く。
「堕胎について、お聞きしたくて……」
ようやく絞り出した私の声を聞くと、女性は少し間を置き、「担当の看護師へおつなぎしますので、そのままお待ちください」と落ち着いた声で答えた。
保留音が流れ始める。
家族連れで訪れる遊園地や商業施設で耳にするような、明るく穏やかな旋律だった。
どうして、その音がこんなにも遠く感じるのだろう。
そこには、子どもの笑い声が似合う世界がある。私は今、その世界へ向かおうとしているのではなく、背を向けようとしていた。
まだ産むと決めたわけでも、堕ろすと決めたわけでもなかった。それでも、このまま一人で育てていける未来だけは、どうしても思い描くことができなかった。
「申し訳ありません。当院はキリスト教の理念に基づいて診療を行っておりますので、人工妊娠中絶は実施しておりません」
「……そうですか」
「梶原さんですね」
「はい」
「当院はキリスト教の理念に基づいて診療を行っておりますので、人工妊娠中絶は実施しておりません。そのため、ご希望の場合は紹介状をご用意いたします。現在、梶原さんは妊娠九週ですね。人工妊娠中絶をご希望でしたら、初期中絶の対象となるのは妊娠十一週六日までですので、できるだけ早めに、手術を実施している医療機関を受診してください」
指先へ自然と力が入った。
「梶原さん?」
「……はい」
「十二週以降になりますと、中期中絶となり、方法も変わります。入院が必要になることが多く、身体への負担も大きくなりますので、もし中絶をご希望でしたら、あまり時間はありません」
九週。
あと三週間もない。
通話が終わる。耳元から声が消えた途端、非常階段の静けさだけが、私を取り囲むように広がっていった。
ふと視線を落とすと、鉄骨の隙間から階下が見える。その暗がりへ身体ごと吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われ、足元がわずかに揺らいだ気がして、私は咄嗟に手すりを握り締めた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が一人で病院へ電話をかけ、自分のこれからについて具体的に考え始める場面を書きました。
産むのか、それとも中絶するのか。まだどちらにも決められないまま、それでも時間だけは過ぎていく。真由にとっては、気持ちが追いつくのを待ってくれるほど、余裕のある状況ではありません。
電話の向こうから告げられた「あと三週間もない」という現実によって、これまで漠然としていた問題が、初めて具体的な時間として迫ってきます。
今回は、そうした真由の焦りや戸惑いを、できるだけ静かに書きました。
この先、真由が何を選ぶのか。そして、その選択をするまでに、誰に何を伝えることになるのか。続きを読んでいただけたら嬉しいです。
この作品は扱っているテーマも重く、登場人物の行動や考え方に共感できない部分もあると思います。すべての方に楽しんでいただける作品ではないかもしれませんし、真由のことをもどかしく感じる方もいらっしゃると思います。
それでも、ここまで読み進めてくださったことを本当にありがたく思っています。
もし何か感じていただけましたら、リアクションや率直なご感想などいただけると励みになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




