第十八話 残された痕
一夜が明ければ、何もなかったように朝が来る。
会社へ行けば、いつもと同じ仕事があり、いつもと同じように一日が始まっていく。
けれど、真由の中では、昨夜から何ひとつ終わっていませんでした。
時計の針が日付を越える頃、藤崎さんはゆっくりと立ち上がった。
私の浅く繰り返す呼吸だけが、辺りに残った静けさをかすかに揺らしていた。
「……じゃあ、明日、職場で」
ドアが閉まる音だけが、小さく響いた。
引き留めることもできなかった。「待って」と言うことも、「子どもができたの」と打ち明けることも、結局できないまま終わってしまった。
部屋にはもう私しかいないはずなのに、ソファへ身を預けると、さっきまで藤崎さんがいたぬくもりだけがまだ微かに残っているような気がして、私はそっと頬を寄せたままいつの間にか眠っていた。
翌朝、目を覚ますと、腰のあたりの鈍い痛みに気づいた。
シャワーを浴びようと服を脱ぎ、鏡の前へ立ったときだった。腰の脇に、小さな青紫色の痕がいくつか残っているのが目に入る。
そっと指先でなぞると、わずかに痛みが走る。
昨夜の出来事は、夢ではなかった。
この小さな痕は、好きだと伝えることができた夜の名残なのか、それとも、一番伝えなければならなかったことから目を背けた私へ残された罰なのだろうか。
……その答えを見つけられないまま、私はいつもと同じ朝を始めるしかなかった。
会社へ着くと、いつもと変わらない朝が始まった。
パソコンを立ち上げると、昨日の午後から届いていた見積依頼や納期確認、営業担当から転送された案件のメールが受信箱へ並んでおり、半日休んだだけのはずなのに、その間に止まっていた仕事が静かに積み重なっていることを改めて思い知らされた。
私は優先順位を頭の中で整理しながら一件ずつメールを開き、見積書を作成して取引先へ送り、電話で在庫や納期の問い合わせへ応じ、その合間に営業担当から持ち込まれる急ぎの依頼へ対応していく。
電話が鳴るたびにメールの手を止め、受話器を置けばまた画面へ視線を戻す。
いつもなら手が覚えている仕事だった。
画面を見れば自然と指が動き、電話が鳴れば考えるより先に受話器を取っていたはずなのに、今日はメールを最後まで読んでも内容が頭へ残らず、見積書へ入力した数字を何度も見返しては、小さく息をついて入力し直していた。
「梶原さん」
名前を呼ばれ、私はようやく顔を上げる。隣の席の同僚が、心配そうな表情で私を見ていた。
「昨日、午後から休んでたけど、まだ具合悪い?」
「……いえ、大丈夫です」
私も画面へ視線を戻す。受信メールを開き、見積書を作成し、電話へ応じる。手はいつもと変わらず動いているのに、意識だけは昨夜の部屋へ取り残されたままで、仕事へ集中しようとするたび、一番伝えなければならなかったことを結局言えなかった自分が、繰り返し意識の底から浮かんでくる。
……産むにしても、堕ろすにしても、藤崎さんへは伝えなくてはならない。
それなのに、昨夜のことが頭をよぎるたび、お腹の子は大丈夫だったのだろうかという不安まで押し寄せてきて、私は何から向き合えばいいのか分からなくなっていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、藤崎さんが帰ったあと、真由が一人になってから翌朝、そして会社で仕事をするところまでを書きました。
昨夜のことが終わったわけではないのに、朝になれば仕事へ行かなければならない。メールを確認して、見積書を作って、電話に出る。周囲から見れば、いつもと変わらない一日です。
けれど真由自身は、身体に残った痕を見て、昨夜の出来事が現実だったことを改めて思い知らされます。
そして何より、伝えなければならなかった「子どもができた」という言葉を、結局伝えられなかった。
産むのか、中絶するのか。藤崎さんにどう伝えるのか。昨夜のことによって、お腹の子に何か影響はなかったのか。いくつもの問題が一度に押し寄せてきて、真由自身も何から考えればいいのか分からなくなっています。
ここから先、真由がどう動いていくのか。読んでくださる方によっては、またもどかしく感じるところがあるかもしれません。それでも、今の真由にとっては、すぐに答えを選べるほど簡単な状況ではありません。
この物語がすべての方に受け入れていただける作品だとは思っていません。私自身、読んでくださる方にどう受け取っていただけるのか、少し不安なところもあります。
それでも、ここまで読んでくださったことを本当にありがたく思っています。もし何か感じていただけましたら、リアクションや率直なご感想などいただけると嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




