第十六話 その声
大久保君と別れ、一人で帰る夜道。
駅前で交わした言葉を何度も思い返しながら、真由はこれから自分が何をしなければならないのかを考えます。
けれど、ようやく決めようとしたそのとき、思いがけない出来事が待っていました。
大久保君と並んで電車に乗った。
帰宅する人たちで車内はほどよく埋まっていたけれど、私たちの間には、駅前で交わした会話の続きを誰にも聞かれたくないような静けさだけが流れていた。
最寄り駅へ着き、改札を抜ける。
「一人で大丈夫?」
大久保君は、私の顔色をうかがうように静かに尋ねた。
私は首を横に振る。
「ううん。一人で帰れるから」
少し遅れて「ありがとう」と付け加えると、大久保君は一瞬だけ困ったように笑い、小さく頷いた。
「気をつけて」
その一言だけを残して、大久保君は駅の人混みへ紛れていった。
私は一人、マンションへの道を歩き始めた。
夜風は頬を撫でていく。それでも、駅前で交わした言葉だけは、少しも遠ざかってはくれなかった。
『その友達が未婚なら、法律上は相手の男の同意が必ず必要というわけじゃない。ただ、産院によって対応は違う。父親の同意書を求めるところもあるし、事情を説明すれば対応してくれるところもある』
知らなかった。
自分のことなのに、何ひとつ分かっていなかった。
慰謝料を請求される可能性があることさえ、私は考えたことがなかった。
自分のことなのに、何ひとつ分かっていなかった。
「知らなかった」――その言葉が免罪符にはならないことを、大久保君は静かな口調で告げた。あの視線だけが、今も胸の奥から離れない。
私は立ち止まり、肩からずり落ちかけたバッグを掛け直した。
藤崎さんと距離を置かなくちゃ。
別れなくちゃ。
そして、この子のことも伝えなくちゃ。
エレベーターを降り、部屋へ続く廊下を歩き始める。
足は前へ出ているのに、心だけがさっきの駅前へ取り残されたままだった。距離を置かなければならない。別れなければならない。そう繰り返すたび、足取りは少しずつ鈍くなり、部屋へ近づくほど胸の奥が重く沈んでいく。
部屋の前に、人影が立っているのが見えた。
視線だけが先にその姿を捉え、思考は少し遅れて追いついてきた。廊下の蛍光灯が横顔を照らし、その輪郭がゆっくりと浮かび上がる。
――藤崎さんだった。
スーツ姿のまま壁へ軽く背を預け、私に気づくと顔を上げる。
「真由」
その声を聞いた瞬間、さっきまで自分に言い聞かせていた言葉が、音もなく崩れていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、大久保君との会話を受けて、真由が自分の置かれている状況を少しずつ現実として考え始める場面を書きました。
「知らなかった」ということだけでは済まされない現実を知り、それでもすぐに答えを出せるわけではない。その揺れたままの気持ちで帰宅した真由を待っていたものが、今回の最後の場面になります。
ここから先、真由は皆さんを少しイライラさせてしまうかもしれません。頭では分かっていても、気持ちが追いつかない。離れなければと思いながら、それでも簡単には離れられない。そんな真由の弱さや迷いも含めて、この先を書いていきたいと思っています。
正直なところ、この作品がすべての方に受け入れていただけるとは思っていません。扱っているテーマも重く、登場人物の言動に共感できない部分もあると思いますし、読んでいて「もう、しっかりしてよ」と思われる場面もあるかもしれません。
それでも、ここまで読んでくださった方に、真由がこの先どうなっていくのかを見届けていただけたら嬉しいです。
もし何か感じていただけましたら、リアクションや率直なご感想などいただけると励みになります。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




