↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
VERDANT//ZERO  作者: ORRERYQUBIT
PR
4/37

第3話 ようこそ、___へ!

 その夜、僕はまっすぐ下をめざした。


 交差点の下に見えた尖塔を、確かめたかった。けれど深度60mの海には、それらしい影はどこにもなかった。


 あるのは、光だけだった。


【深度 -60m】


 足元のはるか下で、淡い翠がにじんでいる。昨夜、沈むのが止まったときに見た色だ。


 泡殻が、ゆっくりとその光へ降りていく。


【深度 -94m】


【深度 -131m】


 頭上から、真珠色の光の柱が何本も差しこんでいた。水面の揺らぎをそのまま映して、柱はやわらかくねじれている。


 その光の底に、珊瑚の森があった。



     *



【深度 -180m/光珊瑚の浅瀬】


 見渡すかぎり、珊瑚だった。


 翠に光る枝。群青に沈む枝。ところどころに、琥珀色の灯りをともした扇のような枝。どれも、内側から光っている。


 近づいて、息をのんだ。


 枝の中を、文字が流れていた。


〈おつかれー〉


〈ここ綺麗だね〉


〈また明日な〉


〈ありがとう、助かった〉


 誰かが誰かに送った言葉の切れ端。チャットのログが、光の粒になって、枝の中を樹液みたいに昇っていく。枝分かれのところで二つに分かれて、また先へ。


 人の言葉が、積もって育つ珊瑚。


 説明書の一行は、比喩ではなかったらしい。


 枝の先に指を近づけると、〈またね〉が、僕の指の影をくぐって流れていった。


 浅瀬には、ほかのダイバーもいた。泡殻に包まれた人たちが、珊瑚の上を漂いながら、光を眺めたり、小さな魚を追いかけたりしている。


 けれど、誰も近づかない一角があった。


 森の端だけ、色がなかった。


 白い珊瑚。枝の形はそのまま残っているのに、中に何も流れていない。光も、文字も。


 白化(はっか)、というのだろう。忘れられた言葉の珊瑚は、白く褪せていく。


 白い枝の上には、細かな粒が積もっていた。降りつづける雪が、音を吸うように。その一角だけ、泡の音さえ聞こえなかった。


 静かだった。翠の森のざわめきが、そこで切りとられたように。


 そして、その白い一角のすぐそばで、誰かが手を広げていた。



     *



「ようこそ、___へ!」


 少女だった。


 透きとおっていた。クラゲのように。


 白に近い薄紫の髪が、水の中でゆるやかにうねっている。青い目。体を包む衣は、小さな四角い欠片をいくつも縫い合わせたようなものだった。古い画面のウィンドウを、細かく砕いて繋いだみたいに。


 袖と裾が、長く長く伸びている。触手のように、光をひいて揺れていた。


 彼女のまわりを、色褪せた布の切れ端が漂っていた。


 どの布にも、同じ文字が書いてある。


 WELCOME


 その先が、ない。破れているのか、白く抜けているのか。歓迎の言葉だけが残って、どこへの歓迎なのかが、どの布にも書かれていない。


【挿絵②】


 通りかかったダイバーに、少女は両手を広げた。


「ようこそ、___へ!」


 まただ。地名のところだけ、音が抜ける。


 ノイズというより、色の抜けた音だった。声はちゃんと出ているのに、そこだけ白い。褪せた写真の、顔のところだけが光で飛んでいるように。


 ダイバーは、ちらりと彼女を見て、通りすぎた。誰も足を止めない。景色の一部みたいに。


 彼女の頭上に、名札があった。


【案内役#07】


 07。


 どこかで見た数字だと思った。思い出しかけたものは、すぐに泡みたいに逃げていった。


「ようこそ、___へ!」


 次の誰かへ。また次の誰かへ。


 僕は少し離れたところから、彼女を数えた。


 七秒。


 七秒ごとに、同じ角度で手を広げ、同じ高さで首をかしげ、同じ形で笑う。


 きれいな笑顔だった。口角の上がり方も、目の細め方も、よくできている。


 だからこそ、分かった。


 あれは、型だ。


 何千回でも同じに再生できるように作られた、案内役の笑顔のテンプレート。僕も昔、似たものを何十種類も発注したことがある。


 彼女は、どこかのゲームの住人として作られた誰かだったのだ。


 とうに閉じた世界の、入口の案内役。世界がなくなったあとも、その入口に立ちつづけている。



     *



 僕は、彼女の前に降りた。


「ようこそ、___へ!」


 七秒前と、まったく同じ笑顔。


 仕事の顔になるのが、自分でも分かった。案内役の会話は、だいたい木の形をしている。決まった質問には決まった枝があって、枝の外には、決まった“行き止まり”がある。


 まず、枝の上を歩いてみる。


「ここは、どこ?」


「ようこそ、___へ!」


 地名は、やはり白い。


「何か、困っていることはある?」


「旅人さん、よい旅を!」


 行き止まりの台詞だ。想定外の質問に返す、汎用の一行。


 次は、枝の外を。


「今日は、何をしていたの?」


「旅人さん、よい旅を!」


「白い珊瑚は、どうして白いの?」


「旅人さん、よい旅を!」


 笑顔は、一度も崩れない。


 もう一つだけ、と思った。どんな案内役にも、たぶん用意されていない質問。


 案内役は、旅人の名前を訊く側だ。自分の名前を訊かれることは、ない。


「君の名前は?」


 少女が、止まった。


 手を広げかけた形のまま。首をかしげる、少し手前の角度で。


 七秒がすぎた。次の「ようこそ」は、来なかった。


 衣の四角い欠片が、ひとつ、またひとつ、ちらちらと明滅する。何かを探して、どこにもない棚を開けているみたいに。


 十秒。十五秒。


 笑顔が、ほどけた。


 型がずれて、口元が少しだけ下がる。そこにあったのは、テンプレートにない顔だった。迷子の子どもが、自分がどこにいるか分からなくなったときの顔。


「……わからない」


 小さな声だった。


 さっきまでの澄んだ案内の声とは違う。少しかすれて、語尾が揺れている。


 初めて、彼女自身の言葉を聞いた気がした。


「わからないの。わたし、ずっと、だれかを迎えてた。でも、わたしがだれなのか、だれも……」


 そこで、言葉が途切れた。


 WELCOMEの布が一枚、彼女の肩をかすめて流れていく。



     *



 沈黙のあいだに、彼女は何かを口ずさみはじめた。


 旋律だった。


 言葉のない、六つほどの音。上がって、少し下がって、また上がる。終わりまで行かずに、途中でふっと消える。


 本人は、歌っていることに気づいていないようだった。考えごとをするときに指を動かす人がいるみたいに、ただ、こぼれている。


 その旋律に合わせて、近くの珊瑚の枝が、かすかに光を強めた。


 きれいな歌だった。終わらないのが、少しだけ惜しい歌。


「それ、何の歌?」


「……歌?」


 彼女は自分の口元に手を当てた。透きとおった指の向こうで、唇がまだ旋律の形をしている。


「わからない。でも、ずっと、ここにある」


 胸のあたりを、そっと押さえた。


 名前がない。


 この海に来てから、僕もずっと、名前がない。


 だから、少しだけ分かる気がした。名前のない場所に立ちつづけるのが、どれくらい寒いことか。


「名前がないなら」


 口に出してから、自分で驚いた。


「僕がつけてもいい?」


 彼女は、ゆっくりと瞬きをした。テンプレートの瞬きではなかった。


「……うん」


 考える。


 この海では、何もかもが泡のように弾ける。説明書の最初のページに、そう書いてあった。


 泡のことを、昔の言葉で、うたかたという。


 それに、彼女は歌っていた。


「ウタ」


 僕は言った。


「うたかたの、ウタ。泡のことだよ。それと、歌のウタ」


 少女は、その二文字を口の中で転がすように、小さく繰り返した。


「ウタ」


 頭上の名札が、揺れた。


【深民「案内役#07」に呼称が登録されました】


【案内役#07】→【ウタ】


 古い文字がほどけて、新しい文字が、内側から灯るように浮かびあがる。


 深民(しんみん)。この海の住人たちを、システムはそう呼ぶらしい。


「ウタ」


 彼女はもう一度言って、それから、笑った。


 七秒の笑顔ではなかった。少し左右がそろっていなくて、少しだけ泣きそうな、下手な笑顔だった。


 僕はその顔のほうが、ずっと好きだと思った。


「あなたは?」


 ウタが首をかしげた。今度は、型より少し深い角度で。


「あなたの名前は?」


「……ルカ。表示は、こうだけど」


 僕は頭上を指さした。にじんだ枠の中の、三つの疑問符。


 ウタは、その名札をじっと見上げた。それから、確かめるように言った。


「ルカ」


 ほんの一瞬だった。


 名札のにじみが、薄くなった気がした。白い紙が、乾きかけるみたいに。


 瞬きをすると、もう元に戻っていた。【???】は、何も変わらずにそこにあった。


 気のせいだろう。そう思うことにした。


 ウタが、漂ってきたWELCOMEの布を一枚、そっとつかまえた。


「これ、わたしのまわりに、ずっとあるの」


 布の右端は、破れていなかった。白く褪せていた。文字のあったはずの場所だけ、糸の色まで抜けている。


 目を凝らすと、褪せた白の奥に、ごく薄い線が残っていた。何かの頭文字の、縦の一画。それ以上は読めない。


「ここに、何て書いてあったか、覚えてる?」


「……ううん」


 ウタは首を振って、白い珊瑚の一角を見た。


「あの白いところも、前は光ってた気がする。歌ってたの。たくさんの声で」


「今は?」


「今は、雪みたい」


 ウタは布を放した。WELCOMEは、白い枝のほうへゆっくり流れていって、雪の中に音もなく沈んだ。


 僕たちはしばらく、その白さを黙って見ていた。


 白い珊瑚の雪が、音もなく降っている。翠の枝の中では、誰かの〈またね〉が、上へ上へと昇っていく。


 ウタは、自分の新しい名札を、何度も何度も見上げていた。


 名前のない僕が、この海で最初にしたことは、誰かに名前をつけることだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。