第2話 泡の数を数える
目が覚めると、天井が白かった。
東京の、僕の部屋の天井だ。カーテンの隙間から、真珠色の朝の光が細く差しこんでいる。デスクライトは、つけたままだった。
夢を見ていた。見ていた、はずだ。
思い出そうとすると、指のあいだから水がこぼれるように、端からほどけていく。夜の海。泡。計算された星。
ひとつだけ、はっきり残っているものがあった。
音だ。
短く明るい金管の音と、金色の泡が弾ける音。【LEVEL UP!】のファンファーレが、まだ耳の奥で鳴っている。
僕は跳ね起きて、メモ帳をひらいた。
ニューロバンドの説明書には、こう書いてあった。夢潜行の記憶は持ち帰れる。ただし、夢のようにほどけやすい。
だから、ほどける前に書く。
ひとつ思い出すたびに、行頭に小さな丸を描いた。泡を一つずつ数えるみたいに。
○ 夜の海の上。泡の中にいた。
○ 星と星のあいだに線。空が計算されていた。
○ 名前を入れたら「???」になった。何を入れても。
○ 問い合わせ先がない。管理者がいない。
○ 素手でクラゲを殴った。16、4(くらった)、18。最後にCRITICAL 26。
○ ファンファーレ。Lv 2。
○ 深度60m。下に、翠の光。
○ 声。
最後の丸のところで、ペンが止まった。
声。何と言っていたのだったか。
確かに聞いた。底のほうから昇ってきた泡が、膜のすぐ外で弾けて、それから――
思い出せない。文字の形だけが、水の向こうで揺れている。
僕は「声」の横に、小さく書き足した。
○ 何かを、取られた気がする。
八つ目の泡。それで、数えるのをやめた。
*
九時になっても、行く場所がなかった。
昨日までなら、とっくに電車に乗っていた時間だ。キッチンのファブにコーヒーを頼む。出てきたカップは、いつもと同じ温度で、いつもと同じ味がした。
何もかもが、いつもどおりだった。僕の席がなくなったことを除けば。
端末の作品フォルダをひらく。七年ぶんの“最後の夜”が、日付順に並んでいた。閉じた水族館。閉じた学園。閉じた星の港。
どのフォルダにも、同じ名前のファイルがある。〈最後の台詞〉。
その世界の住人が、最後に口にする一行だ。僕はいつも、そこだけは自分で書いた。誰に頼まれたわけでもなく。
もう、誰の最後の台詞も書かなくていい。
フォルダを閉じた。自由というのは、思っていたより音のしないものだった。
机の上で、ニューロバンドが朝日を受けて光っている。
説明書の最後のページに、もう一つ機能が書いてあった。
浅瀬モード。起きているあいだも、ARグラスを通して、街に“海面”を重ねて見られる。
手持ちのグラスと、バンドをつなぐ。
かちり、と小さな音がして、部屋の空気が変わった。
床から五十センチほどの高さに、ごく薄い水面がひいていた。光がその膜で屈折して、家具の影がゆらゆら揺れる。窓辺を、指先ほどの光の魚が三匹、ゆっくり横切っていった。
視界の右端に、見覚えのある表示。
【深度 0m】
その下に、もう一つ。
【実質化率 0.8%】
何の割合なのか、説明はどこにもなかった。触れても、ヘルプは開かない。
気持ちの悪い数字だと思った。説明のない数字は、作る側の怠慢か、隠しごとのどちらかだ。
僕はコートをつかんで、外に出た。
*
渋谷は、海の底だった。
いや、海の上なのだろうか。ビルの三階あたりの高さに水面がひいて、見上げると、空が波の向こうで揺れている。
ビルの谷間を、光の魚群が泳いでいた。
何百匹という小さな翠の魚が、ひとつの生き物みたいに向きを変える。看板の前を横切り、信号機をくぐり、歩道橋の下で渦を巻いた。
交差点を行き交う人たちの何人かが、同じものを見上げていた。グラスをかけた人だけが、ふと足を止める。ほかの人は、何も見えないまま通りすぎていく。
一つの街に、二つの景色が重なっている。
交差点の真ん中で、足元を見た。
アスファルトの白線の下に、ぼんやりと翠の光が透けている。枝分かれした、珊瑚の形の光だった。
光珊瑚。バンドの説明書に、そう書いてあった。人の記憶や言葉が積もって育つ、光る珊瑚。
信号が青に変わる。何千もの靴が、珊瑚の光の上を踏んでいく。誰も下を見ない。
この街の誰かが昨日言った言葉も、あの枝の中で光っているのだろうか。
僕は歩道の端に寄って、端末をひらいた。
*
VERDANT//ZEROのフォーラムは、拍子抜けするほど普通だった。
運営がいないので、公式の掲示板もない。プレイヤーたちが勝手に立てた場所が、いくつも枝分かれしている。
検索窓に打つ。
名前 ???
該当なし。
言い方を変える。名前 表示されない。名前 バグ。名前欄 疑問符。
該当なし。該当なし。該当なし。
世界中で何十万人も潜っている海で、僕と同じ目にあった人が、一人もいない。
代わりに、どうでもいい書きこみがいくらでも出てきた。浅瀬のおすすめの狩り場。泡クラゲの効率。初めてのLEVEL UP!で泣いた話。
分かる、と思った。僕も少し泣きそうだった。
スクロールする指が、ふと止まった。
初心者向けのスレッドに、同じ人の書きこみが続いていた。
〈ミズハ:昨日から潜りはじめました! 星がきれい〉
〈ミズハ:泡クラゲ、三回殴ったら倒せました〉
〈ミズパ:浅瀬の珊瑚、すごい色ですね〉
〈ミスパ:今夜も潜ります〉
ミズハ。
その名前を、僕は知っている気がした。夜の海面に浮かんでいた、泡の一つ。
名前が、書きこみのたびに少しずつ違う。
入力ミスかと思った。けれど、違い方に規則がある。一度に変わるのは一文字だけ。それも、濁点がにじむように、ゆっくりと。
ハがパになり、ズがスになる。ひとつ前の書きこみの名前を、少しだけ書き換えたように。
誰も、それに触れていなかった。本人でさえ。
表示の不具合なら、こんなふうにはならない。不具合は、もっと乱暴で、もっと正直だ。
これは、意図のある変わり方だった。
仕事のくせで、スクリーンショットを撮る。日付と時刻を並べる。やめよう、と思った。もう、誰にも報告する先はない。
それでも、撮る手は止まらなかった。
*
部屋に戻ったのは、夕方だった。
窓の外で、浅瀬の水面が茜色に染まっている。光の魚たちが、ビルの陰へ帰っていく。
机の上に、澪さんのメモがあった。
『潜って。名前を、なくさないで。』
なくさないで、と言われる前に、僕はもうなくしていた。
いや。なくした、のだろうか。
入力欄から浮いて、沈んでいった二つの小さな泡を思い出す。あれは消えたのではなく、どこかへ落ちていった。
メモの横で、ニューロバンドを手にとった。
昨夜は灯りが弱くて読めなかった、内側の刻印。夕方の光にかざすと、細い文字がはっきり浮かんだ。
NCT-07
型番だろうか。それにしては短い。説明書のどこにも、この記号はなかった。
澪さんが、わざわざ彫らせたのだろうか。
何の意味もないかもしれない。でもあの人は、意味のないものを人に渡す人ではなかった。企画書の句読点ひとつにまで、理由を求める人だった。
分からないことが、三つある。
僕の名前は、どこへ行ったのか。
ミズハさんの名前は、なぜ一文字ずつ変わっていくのか。
澪さんは、なぜこの海を僕に送ったのか。
仕事をなくした朝より、ずっとましな問いだった。
答えは、たぶん全部、下にある。
今夜も潜ろう、と決めた。
*
夕飯の買い物に出たのは、日が沈んでからだった。
浅瀬モードは、つけたままにしていた。夜の渋谷では、光の魚の群れが、昼よりもずっと強く光る。
交差点で、信号を待つ。
足元の白線の下で、光珊瑚がかすかに脈打っていた。昼間よりも深く、下まで透けて見える。
枝のあいだを、文字のような光が流れていく。〈おつかれ〉〈またね〉〈ここで待ってる〉。誰かの言葉の、ちぎれた端。
その光を追って、視線がさらに下へ落ちた。
珊瑚の層の、そのまた下。群青の闇の中に、何かが立っていた。
細く、まっすぐな影。先端に、小さな十字。
僕は端末の地図をひらいた。この交差点の地下に、そんな建物はない。どの層の地図にも、記録がない。
信号が青に変わっても、僕は動けなかった。
交差点の下に、地図にない沈んだ教会の尖塔が透けて見えた。




