第35話 零溝
ウロの膜に、ノアが、手を当てた。
白い炎の膜と、虹色の膜が、触れあった。音はしなかった。ただ、二つの膜の境目で、光が、ゆっくりと混ざりあった。
「入る前に、言っておくね」
ノアは、膜に手を当てたまま言った。
「約束したでしょ。見つけるのは、もう少しあとでいい。そのときは、私から言うって」
【深度 ――/ウロの膜の上】
*
「私ね、病院にいるの」
ノアは、いつもと同じ声で言った。
「湘南の。窓から海が見えるって言ったでしょ。あれ、病室の窓。もう、二年くらい」
僕は、黙っていた。
数えた夜の数字が、頭の中で、一つずつ、正しい場所に収まっていった。3時40分。お薬の時間。FRGが上がる時刻。ちらつく輪郭。白い炎の、空欄の光源。
「心臓がね、ちょっと、ほかの人より疲れやすいの。夜中に、一回、薬を入れなきゃいけない。それが、3時40分」
「うん」
「明日、手術なの。現実の明日。大きいやつ」
ノアは、膜の向こうの、街の灯りを見ていた。
「お医者さんは、半分くらいって言ってた。うまくいく確率。半分って、正直な数字だよね。千歳さんの★みたい」
「……うん」
「この灯りね」
ノアは、ランタンを、少し持ちあげた。白い炎は、もう、指先ほどの大きさしかなかった。
「たぶん、私の、なんだと思う。灯会の灯でも、この海のどこかの灯でもなくて。私の体の中で、燃えてるもの。だから、白いの。だから、私の体が疲れると、ちらつくの」
FRG。儚さの数字。
割れていないのに、上がる。
割れるのは、泡殻ではなかったのだ。
「ルカくんは、たぶん、もう分かってたよね」
「……分かりかけてた」
「答え、出さないでくれて、ありがとう」
ノアは、笑った。
「自分で言いたかったの。誰かに言い当てられるんじゃなくて」
*
「手術が終わったら、しばらく、潜れない」
ノアは言った。
「うまくいっても、たぶん、長いあいだ。うまくいかなかったら――」
その先を、ノアは言わなかった。
言わないことを、選んだのだと分かった。
「だから、今夜、ちゃんと終わらせたいの」
「終わらせる?」
「ここでの、私を」
ノアは、まっすぐに、僕を見た。
「二年間、毎晩ここに来て、灯守をした。いっぱいの人を灯した。千歳さんに怒られて、カゲロウくんたちに笑われて、ルカくんを拾った。楽しかった」
ノアは、ランタンを、胸に抱いた。
「それを、途中で、ぷつんって切られたくないの。この街みたいに。明日、手術室に入るとき、まだ終わってないものを、ここに置いていきたくない」
終わりは、残される側のためにある。
ノアは、残される側でもあり、去っていく側でもあった。
だから、自分で、終わらせたいのだ。残していく人たちのために。そして、明日の自分のために。
「ちゃんと終わったものだけが、ちゃんと思い出になれる」
ノアは、僕が胸の中でだけ思ってきた言葉を、そのまま言った。
「そうでしょ。ルカくんが、教えてくれた」
「……僕は、言ってない」
「言ってたよ。顔で。仕事の顔のとき、いつも」
*
「最後まで、いる」
ノアは言った。
「花火、見る。最初の一発に、私の灯りを使って。それから、3時40分に、ちゃんと落ちる。いつもみたいに」
「ノアの灯りは、もう」
「足りるよ」
ノアは、指先ほどの炎を、膜に押しあてた。
「一発ぶんは、ちゃんと残してある。十一回目の灯火、誰にも向けないで、自分の内側に灯したでしょ。あれ、このために、とっといたの」
僕は、何か言おうとした。
やめて、とは、言えなかった。
それは、外から来た者が、待つことをやめろと言うのと、同じだったから。終わらせ方を、他人が決めること。七年前、十一時十四分に、誰かがこの街にしたこと。
「……分かった」
僕は言った。
「3時40分には、落ちて。必ず。それだけ、約束して」
「約束」
ノアは、小指を出した。泡殻ごしに、指を絡めた。
膜が、ひらいた。
*
【深度 -20,000m/零溝】
数字が、戻った。
深度計が、二万を指していた。ゼロ・トレンチ。最初の夜に、ありえないと思った深さ。現実の海の、二倍近い。
けれど、圧の表示は、こうだった。
【要求PRS 0/現在 450】
ゼロ。
泡の内側だからだ。ウロは、それ自体が、一つの巨大な泡殻だった。外の水を押しとどめて、内側に、十一時十四分の空気を、そのまま抱えている。
僕たちは、石畳の上に立っていた。
広場だった。
沈都の広場と、同じ。けれど、ここには、人がいた。
何百もの影。屋台。子ども。舞台のまわりに集まって、みんな、上を向いている。誰も、動かない。息を吸ったところで、止まっている。
時計塔の針は、十一時十四分。
秒針が、一秒進んで、一秒戻る。
視界の隅の、現実の時刻は、【2:51】。
ノアが落ちるまで、四十九分。
アーケードの入口の、七つの台座。#07の上に、小さな影が、立っていた。両手を広げかけて、止めて。首をかしげる、少し手前で。
ウタが、それを見ていた。
「……わたし」
ウタが、僕の手を離した。
台座のほうへ、一歩。
*
「書かないで」
声がした。
僕の声だった。
舞台の上に、それは立っていた。
僕の形をしていた。白い潜水服。黒い髪。けれど、顔がなかった。灰色の兵の兜のような、暗い空洞。手に、硝子の銛ではなく、懐中時計を持っている。蓋のひらいた、文字盤の白い時計。沈都の時計屋のショーケースにあった、まだ決まっていない、あの時計。
頭上に、名札が浮かんでいた。
【ルカ】
ウロだった。
この泡の、声と、形。最初の夜に取った僕の名前を、まだ、持っている。
「書いたら、終わる」
ウロは言った。僕の声で。けれど、偽物の僕とは、違った。偽物は、写していただけだった。ウロは、震えていた。
「終わったら、みんな、いなくなる。まだ、待っていられるのに。あと一分、待っていられるのに」
僕は、演台に向かって、歩いた。
前提を、一つずつ、並べながら。
泡は、弾ける。この海では、それが物理だ。弾けて、数字になって、光って、消える。
弾けるから、数えられる。数えられるから、照らせる。
終わりは、残される側のためにある。
この街で、残されたのは、住人たちだ。そして、このウロ自身だ。
ウロは、終わりを恐れている。終われないことに、苦しんでいる。その両方が、同じ一分の中にある。
名前は、持っているものではない。渡していくものだ。
数えられないものには、圧がかからない。
最後の台詞は、迎えられた者が、迎えてくれた者に返す言葉だ。
そして、その言葉を言う者には、名前が要る。
名前を書くには、名札の空白が要る。空白は、まだ、僕の頭上にある。
前提は、すべて出そろった。
結論だけが、まだ、残っていた。
何と、引き換えに。
僕は、演台の前で、立ちどまった。
台本が、伏せて置かれていた。沈都の演台にあったのと、同じ台本。最後のページの、〈最後の台詞〉の見出し。
ウロの顔のない顔が、僕を見ていた。
僕のステータスが、視界の隅に、浮かんでいた。
??? Lv 37 ジョブ:銛撃士
ここまで、潜ってきた数字。一つずつ、積みあげてきた数字。誰にも写せない、僕の数字の音。
僕は、その数字を、長いあいだ見ていた。
時計塔の秒針が、一秒進んで、一秒戻った。
十一時十四分。
十五分まで、あと、一分。




