第34話 最後の台詞の草稿
ウロの膜の上で、僕は、企画書をひらいた。
白い炎の中では、紙は濡れなかった。数えられない海の中で、それだけが、まだ紙の手ざわりをしていた。
最後のページ。何も書かれていない、白い余白。日付の欄の、赤い取り消し線。
ペンは、ジウさんが貸してくれたものを、持ってきていた。几帳面な楷書を書く人の、少し重たいペン。
ここに、一行を書く。
この街の、最後の台詞を。
【深度 ――/ウロの膜の上】
*
一行目の案を、書いた。
『ありがとう。きみたちのことは、忘れない』
書いてから、読んだ。
七年前の、三行の案と、同じ匂いがした。立派で、正しくて、泣かせるための間が、ちゃんと取ってある。
消した。
線を、一本引いて。
ノアが、隣で、それを見ていた。
「どうして、消したの」
「誰に向けて書いたのか、分からないから」
ありがとう、と言われるのは、誰だろう。忘れない、と約束するのは、誰だろう。
見送る人が、去っていくものに言う言葉。それは、去っていくもののための言葉に見えて、ほんとうは、言う側の気持ちを片づけるための言葉だ。
前の仕事で、何百回も書いた。
それで、よかったのだと思う。閉じていく世界に、最後の夜を設計するとき、終わりは、残される側のためにある。見送った人が、明日も生きていけるように。
けれど、この街では、残されたのは、誰だ。
去っていくのは、誰だ。
*
二行目を、書いた。
『さようなら。また、いつか』
消した。
また、いつか、は、来ない。この街に、いつかは、ない。また、と言えば、この泡は、もう一分、待ってしまう。
三行目。
『おつかれさま。もう、待たなくていい』
ペンが、止まった。
これは、少し、近い。
待っている者に向けた言葉だ。広場の何百もの影。客間の灯り。台座の上の七番。灯りの芯を切りつづける人。歌のなかほどを歌いつづける人。白い珊瑚の声を聞く人。
彼らに、もう待たなくていい、と言う。
けれど、それは、命令だ。
待つことをやめろ、と、外から来た者が言う。七年前、十一時十四分に、外から中止を言いわたしたのと、同じ形をしている。
消した。
*
四行目を書く前に、僕は、ペンを置いた。
前提を、もう一度、並べなおした。
この街は、迎えるために作られた。企画書の、あの人の字。住人たちは、泣かせるために作られたのではない。迎えるために作られた。だから、最後の夜の主役は、迎えるという行いそのもの。
では、最後の台詞は、誰が言うのか。
舞台の演台に立つのは、僕だ。〈最後の台詞〉の見出しの下に、僕の名前が入るはずだった。
僕が、誰に向けて言うのか。
迎えられる側だ。
この街は、七年、人を迎えた。そして、最後の夜に、誰も迎えられなかった。客間の鍵は、一度も使われなかった。
だとしたら、最後の台詞は、迎えられた者が、迎えてくれた者に、返す言葉だ。
見送る言葉では、なく。
迎えられた、という返事。
ペンを、取った。
書こうとして、もう一つのことに気づいた。
この街の名前を、呼ばなければならない。
七年前の三行の案は、街の名前を呼んで始まっていた。それが、中止の理由だった。十一時十五分を過ぎて、古い名前が呼ばれてはいけなかったから。
僕は、その名前を、覚えていなかった。
*
ジウさんの帳面にも、書けなかった。看板にも、表札にも、横断幕にも、三文字ぶんの白が抜けていた。
三文字。
僕は、目を閉じた。
スイさんの庭園で、思い出したこと。見本帳を何十冊もめくった夜。机の上の、冷めたコーヒー。モニターに映った、試し刷り。
試し刷りには、何が刷られていた。
書体を選ぶとき、人は、いちばん大事な言葉で試す。その書体で、いちばん多く刷られる文字。看板にも、チケットにも、横断幕にも入る文字。
街の名前だ。
僕は、その名前を、何百回も、画面に打った。
夜に読む字だから。
あの人の声。後ろから覗きこんで、赤ペンで丸をつけた手。
――この街の名前、あなたの名前が入ってるのね。
――だから、あなたに書かせるの。
目を、あけた。
僕は、企画書の余白に、三文字を書いた。
夜光虫。
ペン先が、紙に受けとめられた。
白くならなかった。
その三文字の上に、小さく、ふりがなを振った。七年前、何百回も打った、読み方。
ノクティルカ。
夜の海で、波に触れると青く光る、小さな生きもの。夜にだけ、自分で光る。
ノクティ、ルカ。
僕の名前が、街の名前の終わりに、入っていた。
*
「……ノクティルカ」
ウタが、つぶやいた。
声に出した瞬間、ウタの体の内側の、四角い欠片が、いっせいに光った。
「知ってる。それ、知ってる」
ウタは、自分の胸を押さえた。
「ようこそ、ノクティルカへ。……わたし、それ、言ってた。毎晩。七秒ごとに。でも、名前のところだけ、ずっと言えなかった」
ようこそ、の後ろに、ずっと、白い空白があった。
ウタは、そこに、名前を入れたかったのだ。
ウロの膜の上を回る文字が、一瞬、止まった。
『まだ?』の渦が、途切れて、膜の表面が、細かく、震えた。
それから、また、ゆっくりと、回りはじめた。
まだ、だ。
名前は、まだ、半分だけだ。
この紙の上には書けた。けれど、舞台の上では、まだ呼ばれていない。そして、呼ぶ者の名札は、まだ【???】のままだ。
ノクティルカの、ルカ。
ウロが、最初の夜に僕の名前を取ったのは、だからなのかもしれない。
街の名前の終わりを持った者が、街の終わりを書く。それを、ウロは、恐れた。
*
僕は、四行目を書いた。
書いて、読んで、消さなかった。
ノアが、覗きこもうとして、やめた。
「見ないの?」
「舞台で、聞く」
ノアは笑った。白い炎が、また少し、小さくなっていた。
「ねえ、ルカくん。それ、甘くない?」
「分からない」
僕は、赤ペンの『終わらせ方が、まだ甘い』を、指でなぞった。
「あの人に、見せられないから」
かわりに、余白の下の端に、小さく、日付の欄を書きなおした。赤い取り消し線の、すぐ下に。
〈最終夜 実施日〉
今夜。
ペンを閉じて、企画書を、胸にしまった。
ウロの膜の下で、十一時十四分の街の灯りが、透けて、揺れていた。何百もの影が、上を向いていた。
その中の一つ。台座の上の、小さな影が、ほんの少しだけ、こちらを見た気がした。




