第33話 虚ろな海
数えられない場所を、どうやって進むのか。
前提は、千歳さんが、体で示してくれた。この海では、数えられないものには、圧がかからない。名札も、数字も持たない生きものは、ただ通してもらえる。
けれど、僕は、数字を持っている。
??? Lv 37 PRS 450
名前は、ない。数字は、ある。
輪の外へ一歩出れば、潰れる。それは、もう、体が覚えていた。
【深度 -11,000m/輪の縁】
*
「数字を、置いていければいいのにね」
ノアが言った。冗談のような声で。
「ルカくん、レベル、ちょっとだけ預けていかない?」
「預け先が、ないよ」
「そうだね」
ノアは、笑った。それから、ランタンを、胸の前に持ちあげた。
「じゃあ、包んでいこう」
「包む?」
「私の灯りの光源、空欄なんでしょ。ルカくんが前に数えてた。灯会の灯じゃない。この海のどこからも、分けてもらってない」
ノアは、白い炎を見つめた。
「この海のシステムが、知らない灯り。だったら、この灯りの中にいるものは、数えられないんじゃないかな」
僕は、すぐには答えられなかった。
推論としては、通っていた。ウタの歌は、効果元の欄に何も書けないまま、数字を動かした。システムの外側から、数字が届いていた。
なら、ノアの炎の内側は、システムの外側だ。
通っていることが、怖かった。
「ノア、それは」
「やってみないと、分からないでしょ」
ノアは、千歳さんのほうを向いた。
「千歳さん、ここで待っててくれる?」
「待つさ」
千歳さんは、兜の窓を閉めた。
「待つのは、慣れてる。迎えに行くのも、一回やったしね」
*
ウタが、先に、輪の縁を越えた。
深民は、泡殻を持たない。圧は、最初から、ウタを数えていなかった。透きとおった体が、透明な闇の中に、ふわりと浮かぶ。
「へいき」
ウタは、振り向いて、手を振った。
「ここ、静か」
次に、ノアが、ランタンを高く掲げた。
白い炎が、ふくらんだ。
ランタンの硝子を越えて、外へ。光の膜になって、ノアと、僕を、すっぽりと包んだ。千歳さんの輪とは違う。輪は、外から支える光だった。これは、内側から、灯す光だった。
「行くよ」
ノアが、僕の手を取った。
輪の縁を、越えた。
泡殻は、鳴らなかった。
視界の隅の表示が、一つずつ、書き換わっていった。
【深度 ――】
【要求PRS ――/現在 ――】
【HP ――】
数字が、消えた。
消えたのではない。書けなくなったのだ。ウタの歌が、最初に数字を動かしたときの、効果元の欄のように。
この光の中では、僕は、数えられていない。
名前も、数字も、ない。
ただの、生きもの。
「……通れた」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
*
そこは、海だった。
けれど、群青でも、黒でもなかった。
色のない、透明な水。どこまでも、底が見えない。上も、見えない。光る魚も、珊瑚も、岩もない。ただ、遠くのほうで、何かが、ゆっくりと明滅している。
近づくと、それは、数字だった。
水の中に、数字が浮かんでいた。
ばらばらの、意味のない数字。
【417】。【88】。【9,999】。【267】。【1,100】。
見覚えのある数字も、あった。僕のCRITICAL。円盤の光線。偽物の星。偽物の僕の一撃。千歳さんのPRSの上限であり、一万一千メートルの要求PRSでもある、輪の届く底の数字。
それから、見覚えのない、何万もの数字。
「これ、なに?」
ウタが、数字の一つに、指を伸ばした。触れると、数字は、泡のようにほどけて、消えた。
「たぶん、誰にも数えられなかった数字だ」
僕は言った。
「弾けた泡は、数字になって、光って、消える。でも、ここにあるのは、数えられる前に、どこにも書かれなかった数字。名前のない数字」
数字だけが、漂っている海。
数えられない海。
ここには、何が、どれだけあるのか、誰にも分からない。分からないから、どこまでも続いているように見える。
虚ろ、と思った。
ウロの、うつろ。
*
どれくらい進んだのか、分からなかった。
深度計は、――のまま。時計も、――のまま。数えられないところでは、時間も、深さも、数えられない。
ノアの白い炎だけが、灯っていた。
その炎が、少しずつ、小さくなっていった。
「ノア」
「だいじょうぶ」
ノアの手は、温かかった。けれど、握る力が、少しずつ、弱くなっていた。
輪郭が、ちらついた。
電波の悪い映像のように、二重になって、戻る。また、二重になる。戻るまでの間が、少しずつ、長くなる。
表示は、出なかった。ここでは、何も数えられない。
でも、僕は、数えていた。
ちらつきの回数を。戻るまでの、間の長さを。
数えることしか、できなかった。
「ノア、戻ろう」
「戻ったら、ルカくん、また潰れるよ」
「それでも」
「それでも、じゃないよ」
ノアは、少しだけ、怒った顔をした。初めて見る顔だった。
「私が、包むって言ったの。最後まで、包ませて」
最後まで。
その言葉を、僕は、聞かなかったことにしたかった。
*
透明な水の中に、底が、見えてきた。
底ではなかった。
膜だった。
とてつもなく大きな、泡の膜。表面に、虹色の干渉が、ゆっくりと流れている。その膜の内側に、街の灯りが透けていた。広場。舞台。何百もの、上を向いた影。
ウロだった。
この海の、どんな泡より大きく、どんな泡より薄く、張りつめた泡。
僕たちは、その、すぐ上にいた。
膜の表面に、文字が流れていた。
ゆっくりと、何度も、何度も、同じ文字が、渦を巻くように。
『まだ?』
『もうすぐ』
『まだ?』
『あと一分』
スイさんの珊瑚の記憶で聞いた、あの子どもと、あの大人の声。それが、膜の上を、文字になって、永遠に、回りつづけている。
「……かわいそう」
ウタが、小さく言った。
怖がっているのではなかった。
「ずっと、待ってるんだね。わたしみたいに」
僕は、膜を見下ろした。
泡は、弾けるものだ。弾けて、数字になって、光って、消える。それが、この海の物理だった。
この泡だけが、弾けない。
数えられない海の、いちばん底で。
数えることを、やめてしまったから。
――十一時十四分の秒針は、一秒進んで、一秒戻る。
数えては、戻し、数えては、戻す。決して、六十まで数えない。
六十まで数えたら、十五分になってしまうから。
ノアの炎が、また一つ、小さくなった。
その白い光の中で、僕は、まだ名前のない名札と、まだ手放していない数字を、両方とも、持っていた。




