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VERDANT//ZERO  作者: ORRERYQUBIT
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33/37

第32話 本物の海で

 一万一千メートル。


 千歳さんの輪が、届く、いちばん深い場所。この海で、数字が数えられる底。


【深度 -11,000m】


【要求PRS 1,100/現在 450(不足 650/圧壊ライン 100)】


【水圧分担:千歳】


【圧損 −325/分】


 輪の中にいても、一分ごとに、HPのゲージが目に見えて削られていく。ノアのランタンが、ひっきりなしに光る。白い炎が、僕の泡殻を、何度も、何度も、なでる。


「ここが、端だよ」


 千歳さんが言った。輪の光の縁が、すぐ足もとにあった。その外は、黒ではなかった。色のない、透明な闇。


 ウロは、その下にいた。



     *



 闇の底から、声がした。


「ルカ」


 僕の声だった。


 最初の夜に聞いたのと、同じ。偽物の唇が、ささやいたのと、同じ。


「ルカ」


 呼ばれた。


 体が、勝手に、振り向いた。


 ウタに呼ばれたときと、同じように。呼ばれた記憶のある体は、呼ばれれば、振り向く。偽物は振り向かなかった。僕は、振り向いてしまう。


 その一瞬で、足が、輪の縁を越えた。


【警告:圧壊ライン超過】


【要求PRS 1,100/現在 450(不足 650/圧壊ライン 100)】


 泡殻が、潰れた。


 きしむのでも、たわむのでもない。膜が、一気に、内側へ折れこんだ。虹色の干渉が、ぎゅっと一点に寄せられて、そこから、ひびが走る。


「ルカくん!」


 ノアの灯火が、まっすぐに飛んできた。


 届かなかった。


 輪の外の透明な闇の中で、白い光が、途中で、ほどけた。


「ルカ」


 下から、また呼ばれる。引かれる。泡殻のひびの隙間から、闇が入ってくる。冷たくはなかった。何の温度もなかった。ただ、数字が、一つずつ、消えていく。


【HP 3%】


 深度計の表示が、乱れた。


【深度 -11,0――】


 数えられない場所へ、僕は、沈みはじめていた。



     *



 頭の、どこか遠いところで、別のものが見えた。


 東京の、七階の部屋。ベッドの上の、僕の体。額の、ニューロバンド。


 枕もとの床に、水が、溜まっていた。


 窓は、閉まっている。蛇口も、閉まっている。それなのに、群青の水が、床板の隙間から、静かに滲みだしていた。


 実質化率の数字が、視界の隅で、ゆっくりと書き換わる。


【実質化率 10.4%】


 二桁だった。


 夢の海が、現実の側へ、溢れはじめている。名前を持たない僕の体には、区切りがない。どこまでが僕で、どこからが海なのか、もう、誰も決めてくれない。


 機械を持ってると、海に名前を呼ばれる気がしてね。


 千歳さんの声が、記憶の底から浮かんできた。


 僕の額には、機械がある。僕の名前は、海の底にある。


 だから、呼ばれるのだ。



     *



「ちょっと、待ってな」


 輪の上で、千歳さんが言った。


 兜を、外していた。


 初めて見る、千歳さんの、素顔だった。日に焼けた、皺の深い顔。白い髪を、きっちりと後ろで束ねている。


「千歳さん、何を」


「行くって言っただろう。本物の海で、何かあったら」


 千歳さんは、盾を、ノアに預けた。


「ノアちゃん、輪をしばらく持たせとくれ。あたしの体は、ここにはいなくなる。でも輪は、消えない。灯守の灯で、つないどけばいい」


「千歳さん……!」


「房総は、今、夜明けさ。いい潮だよ」


 千歳さんの輪郭が、ほどけた。


 落ちたのだ。自分から。



     *



 ――房総の海の、夜明け。


 僕は、それを見ていない。見ていないはずなのに、あとで千歳さんが話してくれた景色が、今でも、自分の記憶のように、はっきりとある。


 浜には、まだ誰もいなかった。


 朝は、銀色。


 千歳さんは、磯着に着替えて、眼鏡を額に上げ、腰に、鉤を一本だけ差した。時計も、電話も、浜の小屋に置いてきた。


 海に入った。


 冷たかった。冷たくて、しょっぱくて、ちゃんと痛かった。


 沖の、岩場の先。そこに、海底ケーブルの陸揚げの標識が立っている。太平洋の向こうから延びてきた何本ものケーブルが、そこから、海の底を這って、陸へ上がってくる。


 千歳さんは、そのケーブルを、目印にして、潜った。


 五メートル。十メートル。


 体じゃ、もう二十メートルがせいぜいだ、と、千歳さんは言っていた。


 十五メートルのところで、ケーブルの表面が、緑に光っていた。


 光珊瑚の、翠。


 浜の朝の海の中で、夢の海の色が、ケーブルに沿って、滲んでいた。


 千歳さんは、それに、手を伸ばした。



     *



 透明な闇の中で、僕は、何かに、腕をつかまれた。


 籠手ではなかった。


 素手だった。皺の深い、硬い、温かい手。


 顔を上げると、そこに、千歳さんがいた。


 鎧も、兜も、盾も、なかった。黒い磯着。額に上げた、古い水中眼鏡。腰に、鉄の鉤。白い髪が、水の中で、ゆらゆらとほどけている。


 頭上に、名札がなかった。


 数字も、なかった。


 HPも、PRSも、Lvも。何ひとつ、表示されていない。


 数えられないものは、この海では、ないことになる。


 圧も、HPも、名前も。


 だから、千歳さんには、圧が、かからない。


 機械を持たない、ただの生きものとして、この海は、千歳さんを通したのだ。


「――ルカ」


 千歳さんが、呼んだ。


 口の動きだけで。水の中だから、声にはならない。それでも、聞こえた。


 下からの呼び声より、ずっと近く。


 千歳さんは、腰の鉤を抜いて、僕の潜水服の胸の留め具に、ひっかけた。そして、上へ、蹴った。


 一回。二回。


 海女の、浮上の蹴り方だった。無駄のない、長い、ゆっくりとした蹴り。


 下からの呼び声が、遠ざかっていく。


 千歳さんの輪の光が、頭上に見えた。ノアが、白い炎を掲げて、輪の縁で、待っていた。


 輪の中へ、引きこまれた。


 泡殻が、ふっと、元の形に戻った。


【水圧分担:千歳(灯火で維持)】


 千歳さんは、僕の留め具から、鉤を外した。


 それから、唇を、すぼめた。


 ひゅう、と、細く高い音が鳴った。


 磯笛。


 胸の中の古い息を、ぜんぶ吐ききる音。生きて上がってきた、合図。


 僕も、吐いた。


 ひゅう、と。今度は、途中で切れずに。


 千歳さんは、笑った。水の中で、声もなく。


 そして、ほどけた。


 本物の海で、息が、もう続かなくなったのだ。



     *



 千歳さんが、鎧を着て、灯台に戻ってきたのは、次の夜だった。


「一分と、十二秒」


 千歳さんは、兜の窓を少しあけて、言った。


「息が、もったよ。七十四にしちゃ、上出来さ」


「千歳さん、体は」


「平気だよ。浜に上がって、磯笛を吹いて、小屋で、あったかい味噌汁を飲んだ。それだけさ」


 僕は、言葉を探した。ありがとう、では、足りなかった。


「どうして、分かったんですか。あの道が、通れるって」


「分からなかったよ」


 千歳さんは、あっけらかんと言った。


「ただ、思ったのさ。海は、名前を呼ぶ。だから、名前を持たないで入れば、ただの生きもんとして、通してもらえる。昔から、そうしてきたからね」


 千歳さんは、窓の外の群青を見た。


「三十年前、うちの人を迎えに行けなかった。あの朝、あたしは、浜で、待つことしかできなかった」


 灯台の灯りが、一周した。


「今度は、迎えに行けた。それで、あたしのほうも、一つ、終わったよ」


 終わりは、残される側のためにある。


 千歳さんは、三十年、残される側だった。


 その千歳さんが、今度は、迎えに来た。残される側から、迎えに行く側へ。


 僕の実質化率は、その夜、10.4%のまま、止まっていた。


 部屋の床の水は、朝には、乾いていた。


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