第32話 本物の海で
一万一千メートル。
千歳さんの輪が、届く、いちばん深い場所。この海で、数字が数えられる底。
【深度 -11,000m】
【要求PRS 1,100/現在 450(不足 650/圧壊ライン 100)】
【水圧分担:千歳】
【圧損 −325/分】
輪の中にいても、一分ごとに、HPのゲージが目に見えて削られていく。ノアのランタンが、ひっきりなしに光る。白い炎が、僕の泡殻を、何度も、何度も、なでる。
「ここが、端だよ」
千歳さんが言った。輪の光の縁が、すぐ足もとにあった。その外は、黒ではなかった。色のない、透明な闇。
ウロは、その下にいた。
*
闇の底から、声がした。
「ルカ」
僕の声だった。
最初の夜に聞いたのと、同じ。偽物の唇が、ささやいたのと、同じ。
「ルカ」
呼ばれた。
体が、勝手に、振り向いた。
ウタに呼ばれたときと、同じように。呼ばれた記憶のある体は、呼ばれれば、振り向く。偽物は振り向かなかった。僕は、振り向いてしまう。
その一瞬で、足が、輪の縁を越えた。
【警告:圧壊ライン超過】
【要求PRS 1,100/現在 450(不足 650/圧壊ライン 100)】
泡殻が、潰れた。
きしむのでも、たわむのでもない。膜が、一気に、内側へ折れこんだ。虹色の干渉が、ぎゅっと一点に寄せられて、そこから、ひびが走る。
「ルカくん!」
ノアの灯火が、まっすぐに飛んできた。
届かなかった。
輪の外の透明な闇の中で、白い光が、途中で、ほどけた。
「ルカ」
下から、また呼ばれる。引かれる。泡殻のひびの隙間から、闇が入ってくる。冷たくはなかった。何の温度もなかった。ただ、数字が、一つずつ、消えていく。
【HP 3%】
深度計の表示が、乱れた。
【深度 -11,0――】
数えられない場所へ、僕は、沈みはじめていた。
*
頭の、どこか遠いところで、別のものが見えた。
東京の、七階の部屋。ベッドの上の、僕の体。額の、ニューロバンド。
枕もとの床に、水が、溜まっていた。
窓は、閉まっている。蛇口も、閉まっている。それなのに、群青の水が、床板の隙間から、静かに滲みだしていた。
実質化率の数字が、視界の隅で、ゆっくりと書き換わる。
【実質化率 10.4%】
二桁だった。
夢の海が、現実の側へ、溢れはじめている。名前を持たない僕の体には、区切りがない。どこまでが僕で、どこからが海なのか、もう、誰も決めてくれない。
機械を持ってると、海に名前を呼ばれる気がしてね。
千歳さんの声が、記憶の底から浮かんできた。
僕の額には、機械がある。僕の名前は、海の底にある。
だから、呼ばれるのだ。
*
「ちょっと、待ってな」
輪の上で、千歳さんが言った。
兜を、外していた。
初めて見る、千歳さんの、素顔だった。日に焼けた、皺の深い顔。白い髪を、きっちりと後ろで束ねている。
「千歳さん、何を」
「行くって言っただろう。本物の海で、何かあったら」
千歳さんは、盾を、ノアに預けた。
「ノアちゃん、輪をしばらく持たせとくれ。あたしの体は、ここにはいなくなる。でも輪は、消えない。灯守の灯で、つないどけばいい」
「千歳さん……!」
「房総は、今、夜明けさ。いい潮だよ」
千歳さんの輪郭が、ほどけた。
落ちたのだ。自分から。
*
――房総の海の、夜明け。
僕は、それを見ていない。見ていないはずなのに、あとで千歳さんが話してくれた景色が、今でも、自分の記憶のように、はっきりとある。
浜には、まだ誰もいなかった。
朝は、銀色。
千歳さんは、磯着に着替えて、眼鏡を額に上げ、腰に、鉤を一本だけ差した。時計も、電話も、浜の小屋に置いてきた。
海に入った。
冷たかった。冷たくて、しょっぱくて、ちゃんと痛かった。
沖の、岩場の先。そこに、海底ケーブルの陸揚げの標識が立っている。太平洋の向こうから延びてきた何本ものケーブルが、そこから、海の底を這って、陸へ上がってくる。
千歳さんは、そのケーブルを、目印にして、潜った。
五メートル。十メートル。
体じゃ、もう二十メートルがせいぜいだ、と、千歳さんは言っていた。
十五メートルのところで、ケーブルの表面が、緑に光っていた。
光珊瑚の、翠。
浜の朝の海の中で、夢の海の色が、ケーブルに沿って、滲んでいた。
千歳さんは、それに、手を伸ばした。
*
透明な闇の中で、僕は、何かに、腕をつかまれた。
籠手ではなかった。
素手だった。皺の深い、硬い、温かい手。
顔を上げると、そこに、千歳さんがいた。
鎧も、兜も、盾も、なかった。黒い磯着。額に上げた、古い水中眼鏡。腰に、鉄の鉤。白い髪が、水の中で、ゆらゆらとほどけている。
頭上に、名札がなかった。
数字も、なかった。
HPも、PRSも、Lvも。何ひとつ、表示されていない。
数えられないものは、この海では、ないことになる。
圧も、HPも、名前も。
だから、千歳さんには、圧が、かからない。
機械を持たない、ただの生きものとして、この海は、千歳さんを通したのだ。
「――ルカ」
千歳さんが、呼んだ。
口の動きだけで。水の中だから、声にはならない。それでも、聞こえた。
下からの呼び声より、ずっと近く。
千歳さんは、腰の鉤を抜いて、僕の潜水服の胸の留め具に、ひっかけた。そして、上へ、蹴った。
一回。二回。
海女の、浮上の蹴り方だった。無駄のない、長い、ゆっくりとした蹴り。
下からの呼び声が、遠ざかっていく。
千歳さんの輪の光が、頭上に見えた。ノアが、白い炎を掲げて、輪の縁で、待っていた。
輪の中へ、引きこまれた。
泡殻が、ふっと、元の形に戻った。
【水圧分担:千歳(灯火で維持)】
千歳さんは、僕の留め具から、鉤を外した。
それから、唇を、すぼめた。
ひゅう、と、細く高い音が鳴った。
磯笛。
胸の中の古い息を、ぜんぶ吐ききる音。生きて上がってきた、合図。
僕も、吐いた。
ひゅう、と。今度は、途中で切れずに。
千歳さんは、笑った。水の中で、声もなく。
そして、ほどけた。
本物の海で、息が、もう続かなくなったのだ。
*
千歳さんが、鎧を着て、灯台に戻ってきたのは、次の夜だった。
「一分と、十二秒」
千歳さんは、兜の窓を少しあけて、言った。
「息が、もったよ。七十四にしちゃ、上出来さ」
「千歳さん、体は」
「平気だよ。浜に上がって、磯笛を吹いて、小屋で、あったかい味噌汁を飲んだ。それだけさ」
僕は、言葉を探した。ありがとう、では、足りなかった。
「どうして、分かったんですか。あの道が、通れるって」
「分からなかったよ」
千歳さんは、あっけらかんと言った。
「ただ、思ったのさ。海は、名前を呼ぶ。だから、名前を持たないで入れば、ただの生きもんとして、通してもらえる。昔から、そうしてきたからね」
千歳さんは、窓の外の群青を見た。
「三十年前、うちの人を迎えに行けなかった。あの朝、あたしは、浜で、待つことしかできなかった」
灯台の灯りが、一周した。
「今度は、迎えに行けた。それで、あたしのほうも、一つ、終わったよ」
終わりは、残される側のためにある。
千歳さんは、三十年、残される側だった。
その千歳さんが、今度は、迎えに来た。残される側から、迎えに行く側へ。
僕の実質化率は、その夜、10.4%のまま、止まっていた。
部屋の床の水は、朝には、乾いていた。




