第31話 灯会の夜
最後の潜行の前の夜、灯会の全員が、灯台にそろった。
誰かが呼びかけたわけではなかった。ただ、その夜に潜ってくると、みんな、そこにいた。
【深度 -1,000m/灯会・灯台】
*
灯台のいちばん下の部屋に、長い卓が出された。
千歳さんが、どこからか、泡で煮た貝の鍋を持ってきた。夢の中の鍋だから、味は、たぶん、それぞれが覚えている味がする。
「房総の、あさりさ。うちの人の好物だった」
カイトくんは、盾を壁に立てかけて、卓のいちばん端に座った。ミナモさんは、ゴーグルを額に上げて、その隣。沈都から上がってくるとき、二人で、帰り道の深さを数えてきたらしい。
「三千メートルから、千メートルまで、千七百九十四歩」
ミナモさんが言った。
「次は、もっと下から数える。帰ってくるとき、何歩か分かるように」
ノアは、窓際で、ランタンの芯を整えていた。白い炎が、いつもより、少しだけ小さく見えた。
パーティの表示に、ノアのFRGが出ていた。
【FRG 96】
僕は、それを見て、何も言わなかった。メモ帳も、ひらかなかった。約束だったから。
ウタは、卓の下にもぐりこんで、みんなの足のあいだから、ひょいと顔を出したりしていた。
「にぎやか」
「にぎやかだね」
「わたし、にぎやかなの、はじめて」
ウタは、そう言って、千歳さんの膝に、よじ登った。
*
零時を少し過ぎたころ、カゲロウが、卓の上に、帳面を三冊置いた。
「僕ら、話し合ってん」
湊くんの声だった。時計は、【0:21】。
「アワイさんのとこで、意見割れたやろ。名前のこと。あれから、三人で、交換日記みたいに書いとってん。誰かが寝てるあいだに、次の人が読めるように」
一冊目は、単語帳だった。
受験用の、細長い、リングで綴じたカード。表に英単語、裏に意味。
「僕のや。最後のほう、見て」
めくると、英単語のかわりに、日本語が書いてあった。
表に、『終わり』。
裏には、何も書いていなかった。
「ずっと考えてん。意味、書けへんかった」
湊くんは、照れくさそうに笑った。
「受験終わったら、この単語帳、捨てるつもりやった。でも、なんか、捨てられへん気がしてきた。終わったら、捨てるもんやと思っとったけど、終わったから、とっとくもんもあるんやなって」
*
【2:30】。
カゲロウが、一拍、止まった。
「――今夜は、ちゃんと仮眠が取れました」
ジウさんだった。
二冊目は、交易帳だった。几帳面な楷書。言葉の森で塗られた言葉を、ジウさんが写したページ。
『また来週』。『おつかれ』。『明日も、ここで』。
その下に、新しい一行が、書き足されていた。
『アワイさんへ。帳面は、記録です。でも、記録を読んで、誰かが思い出したら、それは記憶になります。だから、帳面に書くことは、無駄ではないと思います。』
「トゥンデさんの言葉に、返事を書きました」
ジウさんは、静かに言った。
「わたしの仕事では、覚えていられない人の日記を、毎日、一緒に読みます。その人は、昨日のことを覚えていません。でも、日記を読むと、笑うんです。昨日の自分が、いいことを書いていると。記録が、毎日、記憶に戻るんです」
ジウさんは、ページの端を、指で押さえた。
「名前も、そうかもしれません。誰かが書いて、誰かが読む。そのたびに、名前が、その人に戻ってくる」
*
【5:00】。
「――ハロー! トゥンデだよ。ラゴスは夜の九時! みんな、まだ起きてる?」
卓のまわりは、半分くらいが眠そうだった。千歳さんは、ウタを膝に乗せたまま、兜を少しずらして、うつらうつらしていた。カイトくんは、盾にもたれて寝ていた。
ノアは、いなかった。3時40分に、いつものように落ちていった。ランタンの白い炎も、いつものように、ノアと一緒に消えていた。
トゥンデさんは、三冊目を、卓に置いた。
古い手帳だった。革の表紙が、ひび割れている。
「祖父さんの手帳なんだ。本物は、ラゴスの僕の部屋にある。夢に持ってきたのは、写し」
トゥンデさんは、最後のページをひらいた。
英語と、ヨルバの言葉で、何か書いてあった。
「祖父さんが、死ぬ前の日に書いた。読むよ」
トゥンデさんは、ゆっくりと読んだ。
「『私の名前は、私の父が、私に願ったことだ。私は、それを、おまえの父に渡した。おまえの父は、それを、おまえに渡した。名前は、持っているものではない。渡していくものだ』」
灯台の灯りが、一周した。十二秒。
「だから、僕は、アワイのことも、少し分かった気がする」
トゥンデさんは、手帳を閉じた。
「アワイは、名前を、毎晩、次の人に渡してる。それは、名前がないんじゃない。名前を、ずっと渡しつづけてるんだ。帳面と一緒に」
湊くんの単語帳。ジウさんの交易帳。トゥンデさんの祖父の手帳。
三冊の帳面が、卓の上に並んでいた。
三人で一人。三つの意見は、割れたまま、一つにはならなかった。けれど、それぞれが、ほかの二人の帳面を読んで、自分の帳面に、返事を書いていた。
「割れたままで、ええねん」
トゥンデさんが、湊くんの口調を真似て言った。
「割れてるから、三冊ある。ジョーク! でも、本当だよ」
*
夜明けの少し前、千歳さんが、目を覚ました。
膝の上で、ウタが、眠っていた。深民も眠るのだと、僕は初めて知った。透きとおった体の内側で、四角い欠片が、ゆっくりと、明滅している。
「ルカ」
千歳さんが、小声で言った。
「明日の潜行、あたしは、11,000mまでしか行けない。前にも言ったね」
「はい」
「その先は、あんたと、ウタと、ノアちゃんだけだ」
「……はい」
「あたしは、輪の端で、待ってる。誰も待たないっていう灯守の教会に、名前を刻んだ年寄りがさ、待ってるよ」
千歳さんは、ウタの髪を、籠手の指で、そっとなでた。
「あたしは、三十年、浜で待った。待つのは、慣れてる。でもね、今度は、待つだけじゃなくて、迎えに行きたい気もしてるんだよ」
「迎えに」
「言ってみただけさ」
前にも、聞いた言い方だった。
――もし、本物の海で何かあったら、あたしが行くよ。
千歳さんの兜の奥の目は、やっぱり、笑っていなかった。
*
朝が来て、みんなが、一人ずつ、落ちていった。
最後に残ったのは、僕と、眠っているウタだった。
卓の上の三冊の帳面は、トゥンデさんが、置いていった。
「明日、持っていって。重かったら、置いてきていいから」
僕は、メモ帳をひらいた。
これまでの丸が、何十も並んでいた。ウタの歌。ノアのFRG。千歳さんの星。千七百九十四歩。百七軒。三百二十二の窓。
新しいページに、一行だけ、書いた。
○ 名前は、持っているものではない。渡していくものだ。
その下に、何か書こうとして、やめた。
最後の台詞は、まだ、ここでは書かない。
ここは、灯台だ。来ない船を、正確な時間で待ちつづける場所。
書くのは、終わらせる場所で。




