第30話 名前の行方
逆さまの聖堂には、階段があった。
祭壇の裏に、螺旋の階段が、上へ伸びている。上、というのは、今の僕たちにとっての上だ。この聖堂が逆さまなら、階段の先には、正しい向きの聖堂がある。
表示が三千を指していた理由が、ようやく、自分の足で分かった。
階段を上りきると、そこは、沈都の時計塔の、鐘楼の下だった。
【深度 -3,000m/沈都層・時計塔】
十一時十四分の秒針が、頭の上で、一秒進んで、一秒戻っていた。
*
ウロの膜の下に、街の灯りが透けていた。広場に、何百もの影が、上を向いて立っていた。
あれが、この街の最後の一分なら。
あれを終わらせるには、最後の台詞が要る。最後の台詞を書くには、この街の名前が要る。僕の三行の案は、街の名前を呼んで始まっていた。
そして、名前を呼ぶ者には、名前が要る。
名札が【???】のまま舞台に立っても、たぶん、誰も振り向かない。名前を持たない者が呼んでも、呼び声は届かない。正しい名札を持っていた偽物が、ウタに呼ばれても振り向かなかったのと、裏返しの理屈で。
だから、まず、僕の名前の行方を、辿らなければならなかった。
*
カゲロウの泡の地図を、時計塔の床にひろげた。
湊くんの声で、地図が回る。時計は、【1:12】。
「ほな、整理しよか。ルカ兄さんの名前、どこ行ったか」
僕は、メモ帳をひらいた。最初の頁から、丸を順に読みあげる。
○ 最初の夜。名前を入力したら、「ル」と「カ」が二つの泡になって、膜を抜け、黒い海へ沈んでいった。
○ 闇の底から、声がした。その名前、もらったよ。
○ 深度三千メートルの手前で、偽物の僕が現れた。名札には、正しい二文字。
○ 偽物がほどけたとき、二文字は、群青の上へ昇っていった。消えたのではない。どこかへ、持ち帰られていく。
「上へ」
ノアが言った。
「下じゃなくて、上へ行ったの?」
「うん。それが、ずっと引っかかってた」
最初は、沈んだ。最後は、昇った。
この海の泡は、ふつう、昇る。浮力があるから。沈むのは、何かに引かれたときだけだ。
「最初の夜、僕の名前は、ウロに引かれて沈んだ。ウロは、それで偽物の僕を作った。でも、偽物がほどけたとき、引く力が、なくなった」
「ほんで、浮いた」
「浮いて、どこかで止まった。泡は、ずっと昇りつづけはしない。水面か、何かの下に、引っかかる」
では、どこに。
湊くんが、地図を浅瀬のほうまで、ぐいと引き伸ばした。
「上の、どこやろ」
答えは、まだ、出さなかった。
前提が、一つ足りない。
*
「表札のない家に、行ってみない?」
ノアが言った。
住宅区の、路地のいちばん奥。窓が一つだけ灯っている、小さな家。ミナモさんと窓を数えた夜に見つけた、余りの一軒。
白い表札ではなく、表札そのものが、最初から取りつけられていなかった家。
鍵は、かかっていなかった。
中は、狭かった。部屋が一つだけ。窓際に、机が一つ。ベッドが一つ。枕もとに、たたんだタオルと、使われていない鍵が一本。ほかの家の客間と、同じ。
けれど、机の上だけが、違っていた。
見本帳が、積まれていた。
書体の見本帳。何十冊も。背表紙の擦りきれ方まで、見覚えがあった。
その横に、名札の台紙が、一枚。
何も書かれていなかった。白く抜けているのでも、塗られているのでもない。ただ、まだ、何も書かれていない、まっさらな紙。
台紙の上の端に、小さく、印刷の文字があった。
〈演出補様 お部屋〉
僕は、見本帳の一冊を手に取った。ページのあいだに、付箋が貼ってあった。夜の画面でも読める明朝体の頁に、赤い丸。
この街は、僕の部屋を用意していたのだ。
最後の夜に、最後の台詞を書く人間が泊まる部屋。客間ではない。ここに住む人のための、一部屋。
表札がないのは、消されたからではない。
名前が決まってから、取りつける予定だったからだ。
*
「ねえ、ルカくん」
ノアが、台紙を指さした。
「最初に会った夜、私、言ったよね。ルカくんの名前、『???』じゃなくて、白い灯りみたいな空白に見えるって」
「覚えてる」
「これと、同じ色だよ」
台紙は、ランタンの白い炎の下で、ほんのりと光っていた。
僕は、頭の中で、二つの白を並べた。
言葉の森で見た、白。刷毛で塗られた、なめらかで硬い白。消された白。
そして、この台紙の、白。まだ書かれていない白。
白い人影の刷毛は、僕の名札を塗れなかった。塗るものが、なかったからだ。
僕の名札は、消されたのではない。
まだ、書かれていないのだ。
前提が、そろった。
盗まれたのは、「ル」と「カ」という、入力された二文字だ。それは、ウロに引かれて沈み、偽物になり、ほどけて、昇った。
けれど、名札そのものは、白い灯りのまま、ずっと僕の頭上にあった。名前の入る場所は、奪われていない。
だとしたら、名前をもう一度自分のものにするとは、盗まれた二文字を探しに行くことではないのかもしれない。
この空白に、もう一度、書くことだ。
誰が。
何と引き換えに。
*
帰る前に、僕は、浅瀬の夜のことを思い出していた。
ジョブを選んだ夜。六つの結晶の輪。その少し外れたところに、七つ目の台座があった。
台座だけで、結晶はなかった。名前の灯るはずの場所には、何も灯らなかった。手をかざしても、反応はなかった。
ただ、空っぽの台座の上で、水がわずかに、ほかより澄んでいた。
沈都のアーケードの、七つの台座。#07だけが、白くすり減っていた。
浅瀬の、七つ目の台座。何も灯らない、空っぽの台座。
昇った泡は、どこかの下に引っかかる。
水が、ほかより澄んでいる場所。
「ルカ」
ウタが、袖を引いた。
「顔、仕事の顔になってる」
「ノアに言われる言い方だ」
「ノアに、教わった」
ウタは、少しだけ得意そうだった。
「楽しそうなほう?」
「……半分くらい」
僕は、名札の台紙を、机の上に戻した。持ち出さなかった。ここは、この街が用意した部屋だ。台紙は、この部屋で書かれるべきものだった。
窓の灯りを、消さずに出た。
路地の入口で振り返ると、表札のない家の窓が、琥珀ではなく、ほんの少し白みがかった色で、灯っていた。
気のせいかもしれない。
気のせいだとしても、それは、気持ちのいい気のせいだった。




