第29話 弾けない泡
暗転は、七秒続いた。
数えていた。数えることしか、できなかった。光が一つもない闇の中で、ウタの手の感触と、自分の呼吸と、数字だけが、まだ僕のものだった。
一。二。三。
七つ目で、光が戻った。
ノアのランタンの、白い炎。千歳さんの輪の、淡い膜。それから、逆さまの聖堂の床から、ゆっくりとまた灯りはじめた、翠の光珊瑚。
何かが、下で、息を吸ったのだ。
光を、ぜんぶ吸いこむほど、深く。
【深度 -3,000m(表示)】
*
「大丈夫?」
声がした。
聖堂の入口に、白波レイさんが立っていた。灰色に近い白の潜水服。耳に、銀の測量器。片手の端末に、青い線の図面が浮かんでいる。
「降りてくると思った。だから、先に来て待ってた」
「白波さん」
「向こうで話す、と言ったでしょう」
レイさんは、僕の手の中の企画書を見た。表紙の、右上がりの字を。
「見つけたのね」
「はい」
「最後のページも?」
「……はい」
レイさんは、長い息をついた。泡殻の膜が、ふるえた。
それから、逆さまの祭壇の縁に、腰を下ろした。設計者らしく、座る前に、一度だけ、祭壇の傾きを目で確かめてから。
「七年前のことを、話すわ。あなたが覚えていないぶんを」
*
この街は、七年間、営業していた。
小さな仮想の町だった。住人はみんな、深民と同じ、作られた人たち。訪れる人は、ピークのころで、一晩に数千人。最後の一年は、数百人。
運営の会社が、売られた。
買った会社は、この町を、自分たちの別の事業の資産にしたかった。町そのものではなく、町の名前を。
「名前の権利だけを、買ったのよ」
レイさんは、淡々と言った。
「町の名前は、別の新しいサービスに使う。だから、古い町は、名前ごと消す。契約の条件だった。最後の夜の花火が上がる、十一時十五分より前に」
「花火の、前」
「十一時十五分を過ぎると、町の名前が、新しい持ち主のものになる。その時刻に、古い町の中で、古い名前が呼ばれてはいけなかった。最後の台詞には、町の名前が入っていたから」
僕の書いた、三行の台詞。
そうだ。あの台詞は、町の名前を呼んで、始まっていた。
「十一時十四分に、中止の指示が来た。最後の一分で」
レイさんは、端末の図面を、閉じた。
「広場には、何百人もいた。住人たちは、みんな、舞台のまわりに集まっていた。案内役の七番は、台座の上で、最初の花火を待っていた」
ウタが、僕の手を、強く握った。
「放送を読んだのは、私」
レイさんの声が、初めて、少しだけかすれた。
「建築の責任者が、そこに残っていた一番上の人間だったから。原稿を渡されて、マイクの前に立った」
スイさんの白い庭園で聞いた、七秒の声。
原稿を、読みあげている声。
「原稿は」
僕は、訊いた。訊かなければならなかった。
「原稿を書いたのは、誰ですか」
レイさんは、僕を見た。
「あなたよ」
翠の光が、揺れた。
「会社の人間が、文面の骨組みを送ってきた。それを、夜の画面でも読める形に整えて、放送用の原稿にしたのが、あなた。入ったばかりの子で、文字のことなら何でもできたから。誰も、それがどういう意味の文章なのか、あなたに説明しなかった。あなたも、訊かなかった。急ぎの仕事だったから」
僕は、何も言えなかった。
覚えていない。
覚えていないことが、そのまま、答えだった。
*
「そのあと、何が起きたんですか」
ノアが、静かに訊いた。
「何も、起きなかった」
レイさんは言った。
「それが、起きたことよ。会社は、町の接続を切った。データを消す手順は、明日やることになっていた。でも、明日は来なかった。会社の担当が、次の週には、全員、別の部署に移った。消すはずだった町のデータは、保管用の海底ケーブルの記録の中に、そのまま残った」
世界中の海底ケーブルと、海洋観測のデータを、海水にして育つ海。
「そして、ここに沈んだのね。十一時十四分のまま」
レイさんは、逆さまの聖堂の床を、見下ろした。
その下の、闇を。
「あなたの先生は、それを、七年かけて探していた。会社を辞めて、一人で。毎晩、この海に潜って。病気が分かってからも」
大事なことほど、紙に書く人だった。
企画書を、ここに置いたのは、あの人だ。
「先生は、ここまで来られたんですか」
「ここまでは。でも、その下へは、行けなかった」
レイさんは、闇の底を見つめた。
「下に、あれがいるから」
*
「深民は、あれを、ウロと呼んでいる」
レイさんは言った。
ウロ。
初めて聞く名前なのに、口の中で、ひどく古い言葉の味がした。木の幹の、中が空洞になったところ。虚ろ。何かが抜けたあとの、空。
「この町の最後の一分が、泡になったもの。広場にいた全員の、『まだ?』と『もうすぐ』が、弾ける直前で、閉じこめられた」
レイさんは、両手で、何かを包むような形をつくった。
「泡は、弾けるものでしょう。この海では、弾けて、数字になって、光って、消える。でも、あれは、弾けない。弾ける寸前の一分を、ずっと抱えたまま、膨らみつづけている。十一時十四分の秒針が、一秒進んで、一秒戻るように」
「終われないもの」
「そう。終われないものの、いちばん深い底」
前提が、並んでいく。
名前を白く塗る人影。
数字だけで動く、灰色の兵。
数えることをやめさせる、描かれた星。
どれも、終わりを遠ざけるためのものだった。名前を消せば、呼ばれない。呼ばれなければ、最後の台詞は始まらない。数えることをやめさせれば、誰も底まで来ない。
そして、最初の夜。
僕の名前は、二つの泡になって、闇の底へ沈んでいった。
「あれが、僕の名前を」
「持っていったのは、あれよ」
レイさんは、そう言って、うなずいた。
「この町の最後の台詞を書くことになっていたのは、あなた。あなたが名前を持ったまま、ここへ来れば、最後の台詞が書かれてしまうかもしれない。だから、先に、名前を取った」
偽物の唇が、耳もとでささやいた言葉。
――君は、終わらせ方を知っている。
あれは、脅しではなかった。
怯えだったのだ。
*
闇の底で、また、何かが息を吸った。
翠の光が、いっせいに、下へなびく。千歳さんの輪の膜が、内側へたわんだ。
「……大きいね」
千歳さんが、盾を構えたまま言った。
「あたしの輪の、届かない深さだよ。あれは」
僕は、天井画の星空が床になっている、その端まで歩いた。
縁から、下を見た。
闇の、はるか底。
何かが、光っていた。
丸い、巨大な輪郭。膜の表面に、虹色の干渉がゆっくりと流れている。泡だった。この海のどんな泡より大きく、どんな泡より薄く、そして、どんな泡より、張りつめていた。
その膜の内側に、街の灯りが、透けて見えた。
広場。舞台。何百もの、人の影。
みんな、上を向いていた。
十一時十五分の空を。来なかった花火を。
ウタが、僕の隣で、それを見下ろしていた。
「あそこに、わたしも、いる?」
「……分からない」
「いる気がする」
ウタは、自分の胸に手を当てた。
「台座の上で、上を見てる。ずっと。首が、痛くなるくらい」
ウタの声は、震えていなかった。
闇の底の泡は、弾けなかった。
弾けないまま、ゆっくりと、また一つ、息を吸った。




