第28話 澪の企画書
深度表示が、嘘をついていた。
【深度 -3,000m】
そんなはずはなかった。僕たちは、沈都層を抜けて、深淵層の谷を降り、偽りの星を剥がした棚の、さらに下にいる。千歳さんの輪の光が示す要求PRSは、1,080。深さにして、一万八百メートル。
それなのに、表示は、三千を指していた。
沈都の、聖堂の深さを。
*
棚の下には、空洞があった。
岩の天井から、何かが垂れさがっている。巨大な、逆さまの塔だった。珊瑚に覆われた尖塔の先が、下を向いて、闇の底へ伸びている。
渋谷の交差点の下に見えたのと、同じものだった。
「聖堂の、根っこやな」
湊くんが言った。時計は、【1:47】。
「沈都の時計塔の下が、こんなとこまで伸びとったんか」
塔の側面に、扉があった。
入ると、そこは、聖堂の内側だった。
ただし、上下が逆だった。天井だったはずの場所が、足もとに広がっている。丸い天井画の上を、僕たちは歩いた。描かれているのは、星空だった。夜の空を、聖堂の中に描いた絵。それを、今は、踏んでいる。
そして、空洞いっぱいに、翠の光が満ちていた。
光珊瑚だった。浅瀬の翠と同じ色。壁という壁、柱という柱に、細かく灯っている。
表示が三千を指しているのは、たぶん、ここがまだ聖堂の内側だからだ。この塔の中の深さは、塔が立っている場所の深さとして、数えられている。
深度表示は、嘘をついているのではない。
どこで数えるかを、決められているだけだ。
*
空洞の大聖堂の中央に、祭壇があった。
逆さまの聖堂の、逆さまの祭壇。その上に、一冊、何かが置かれていた。
紙の束だった。
角が擦りきれた、古い紙。表紙は、手で綴じた厚紙。この海の中で、それだけが、現実の質感をしていた。泡でも、珊瑚でも、光でもない。ただの、紙。
僕は、それを手に取った。
表紙に、手書きの文字があった。
右上がりの、急いだような字。
『NCT 最終夜 企画書』
NCT。
ウタの、最初の呼び名。案内役の名札に刻まれていた、三文字の型番。
「ルカ」
ウタが、僕の袖をつかんだ。
「それ、知ってる。わたしの、前の名前」
「うん」
表紙をめくった。
一枚目には、一行だけが書かれていた。
『なぜ泡は、弾けなければならない?』
手の中で、紙が重くなった。
この問いを、僕は知っていた。どこで読んだのかは思い出せない。けれど、ずっと前から、胸のどこかに、この問いの形をした空白があった気がした。
翠の光に満ちた、空洞の大聖堂。手の中には、角の擦りきれた、古い企画書が一冊。
その問いに、僕は、まだ答えを持っていなかった。
三か月前、荷物が届いた夜にはまだ知らなかった場所に、僕は今、立っている。
*
二枚目から、企画書の本文が始まった。
『この街は、七年間、人を迎えてきた。最後の夜も、迎える夜にしたい。』
『住人たちは、泣かせるために作られたのではない。迎えるために作られた。だから、最後の夜の主役は、住人ではなく、来てくれた人たちでもなく、迎えるという行いそのものにする。』
『花火は、十一時十五分。最初の一発は、案内役の七番の真上に。』
ウタが、息をのんだ。
『歌は、三つに分ける。はじめは案内役が、なかほどは歌継ぎが、終わりは、舞台で。』
『最後の台詞は――』
そこで、インクの色が変わっていた。
黒い字が、急に途切れて、余白が続いている。そして、その余白の下に、同じ右上がりの字で、今度は赤いペンで、一行。
『汐見くんに書かせる。』
喉の奥で、何かが鳴った。
三枚目のあいだに、別の紙が一枚、挟まっていた。
薄い、印刷用紙。機械で印字された、文字。
〈最後の台詞 案 演出補・汐見〉
その下に、三行の文章が、並んでいた。
読んだ。
読んで、思い出した。
七年前。会社に入ったばかりの春。夜の画面でも読める書体を探して、見本帳を何十冊もめくった。その合間に、先生に言われて、最後の台詞を書いた。生まれて初めて、誰かの世界の、終わりの言葉を。
三行の、ひどく立派な文章だった。
感謝と、別れと、希望が、きれいな順番で並んでいる。泣かせるための間が、正しく取ってある。どこを直せばいいのか、当時の僕には、分からなかった。
その紙の余白に、赤いペンで、一行。
『終わらせ方が、まだ甘い』
あの言葉は、ここで、最初に書かれたのだ。
僕の、最初の、最後の台詞に。
*
企画書の最後のページを、めくった。
白かった。
何も書かれていない。けれど、ページの下の端に、日付の欄だけが、印刷されていた。
〈最終夜 実施日〉
その欄に、赤いペンで、斜めに一本、線が引かれていた。
取り消し線。
その横に、小さく、書きこみがあった。
『中止。十一時十四分。』
僕は、その文字を、長いあいだ見ていた。
中止。
あの夜、最後の夜は、来なかった。来ないまま、時間が止まった。花火の一分前。十一時十四分。
そして、僕は、そのことを、覚えていなかった。
七年間。一度も。
自分の書いた最初の台詞が、使われなかったことも。先生の赤ペンも。この街の名前も。
覚えていなかったのではない、と、どこかで声がした。
消されたのだ。
言葉の森で、白い人影が、名前を塗りつぶしていったように。
*
「ルカくん」
ノアが、隣に来ていた。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃ、ないかもしれない」
初めて、そう言えた気がした。
ノアは、何も訊かなかった。白い炎のランタンを、企画書の上に、少しだけ近づけた。
白い光が、赤い取り消し線を照らした。
「この人の字、きれいだね」
「急いでるんだ。いつも」
「急いでるのに、きれい。大事なことを書くときの字だ」
ノアは、最後のページの、白い余白を指でなぞった。
「ここ、まだ書けるね」
僕は、顔を上げた。
翠の光が、逆さまの聖堂の中で、静かに揺れていた。
「なぜ泡は、弾けなければならない」
僕は、一枚目の問いを、声に出して読んだ。
答えは、まだない。けれど、問いの意味だけは、少し分かった気がした。
これは、泡に向けた問いではない。
弾けさせる側に向けた問いだ。終わらせる者が、自分に問うべき問い。
なぜ、終わらせなければならないのか。
七年前の僕は、その問いに答えないまま、立派な台詞を書いた。だから、甘かったのだ。
そのとき、翠の光が、いっせいに、揺れた。
逆さまの聖堂のすべての光珊瑚が、風もないのに、同じ方向へ、なびいた。
下へ。
闇の底へ。何かに、吸いこまれるように。
「――ルカ」
ウタが、僕の手を握った。
「何か、来る」
光が、底へ流れていく。
視界が、翠から、群青へ。群青から、黒へ。
――そこで、世界は暗転する。




