第27話 実質化率
目を覚ますと、天井に、波の影が揺れていた。
カーテンの隙間から入る朝の光が、壁に、水面のような模様を落としている。窓の外に、海はない。東京の、七階の部屋だ。
瞬きをすると、影は消えた。
浅瀬モードの隅に、数字が出ていた。
【実質化率 9.6%】
1.4%だったはずだ。
沈都に降りた夜から、何晩たったのか。数えようとして、数えられないことに気づいた。深いところほど、夜の数え方は速くなる。トウヤさんの教会の、刻み跡のように。
*
浅瀬モード。起きているあいだも、ARグラスを通して、街に海面を重ねて見る仕組みだ。
その隅に出る実質化率は、夢の海が、現実の知覚にどれだけ重なっているかを示す。ふつうは、ほとんど0%のまま動かない。眠っているときに見た夢を、起きてからぼんやり思い出す程度の重なり。
1%を越えたとき、少し怖かった。
今は、10%の手前にいる。
グラスを外して、顔を洗った。鏡の中の顔は、いつもどおりの、二十七歳の僕だった。頭の上に、何も浮かんでいない。名札も、疑問符も。
現実では、名前を盗まれていない。
免許証にも、保険証にも、汐見ルカと書いてある。役所の窓口で呼ばれれば、ちゃんと返事ができる。
それなのに、蛇口の水が、ほんの一瞬だけ、群青に見えた。
*
午後、渋谷へ出た。
職業紹介の窓口に、予約を入れていた。仕事を失って、三か月。貯金は、まだしばらくもつ。けれど、何もしないでいると、昼と夜の境目が、どんどん薄くなっていく。
窓口の担当は、やわらかな声の、名前のないアシスタントだった。
「ご経歴を拝見しました。サービス終了イベントの設計、七年。……この分野の求人は、現在、ほとんどございません」
「でしょうね」
「関連する職種として、データの整理と保守の仕事がございます。終了したサービスの記録を、自動生成の仕組みに読みこませる前に、整えるお仕事です」
自動生成の仕組み。四分で、最適な最後の夜を書きあげるもの。
その仕組みに食べさせる記録を、下ごしらえする仕事、ということだった。
「考えておきます」
僕は、それだけ言って、窓口を出た。
*
スクランブル交差点で、信号を待った。
人の波。広告の光。ビルの壁一面に、どこかの仮想の町の「最後の夜」が流れている。また、閉じる町があるのだ。住人たちが手を振り、花火が上がる。間の取り方も、台詞の短さも、直すところが、ひとつも見つからない。
信号が、青になった。
人の波が、交差点の真ん中へ流れこむ。
その真ん中の、アスファルトの下に、何かが見えた。
尖塔だった。
透きとおった、緑の光。路面の白線のずっと下に、珊瑚に覆われた塔の先端が、逆さまに、深い水の底へ向かって伸びている。
昼間だった。
夜の夢の名残ではない。日差しの真下で、交差点を渡る何千人もの足もとに、海の底の塔が、くっきりと透けていた。
立ちどまったのは、僕だけだった。
誰も、下を見ない。浅瀬モードのグラスをかけている人は、ほかにも何人もいた。光の魚を目で追っている人もいた。それでも、足もとの塔に気づく人は、いなかった。見えているのは、たぶん、僕の実質化率のせいだ。
グラスを外した。
尖塔は、消えなかった。
肩がぶつかって、舌打ちが聞こえた。
僕は、渡りきった。振り向くと、尖塔は、まだそこにあった。人の波の下で、静かに、翠に光っていた。
時計が十一時十四分で止まった、あの聖堂の尖塔だった。
どうして、それが、ここにあるのか。
前提を並べる。
この海は、世界中の海底ケーブルを、海水にして育っている。東京の地下には、ケーブルの束が、何本も通っている。夢の海の水が、現実の側へ滲みだしているのなら、それは、ケーブルの通り道に沿って現れるはずだ。
そして、僕の実質化率が上がっているのなら、それを見るのは、僕だけだ。
では、なぜ、僕の数字が上がるのか。
潜っている時間が長いから、だけではない。ノアも、千歳さんも、僕よりずっと長く潜っている。
僕だけが、持っていて、ほかの人が持っていないもの。
名札の、空白。
名前を持っていない人間は、この海から、どこまでが自分なのかを区切ってもらえないのかもしれない。区切りがないから、夢の海が、現実の側まで、少しずつ染みてくる。
その推論を、僕はメモ帳の丸にはしなかった。
ここは、メモ帳を持っていない側の世界だったから。
*
家に戻って、古い端末をひらいた。
仕事のフォルダは、前の会社の端末と一緒に消えた。けれど、個人の控えが、少しだけ残っていた。七年分の、〈最後の台詞〉という名前のファイル。
農園ゲームの閉園式。宇宙船の最終航海。小さな学園の、卒業式のない卒業。
ひとつずつ、ひらいた。
どれも、よくできていた。間の取り方も、言葉の短さも。
いちばん古いファイルの日付を、探した。
七年前の、秋。
その前の日付のファイルは、なかった。
会社に入ったのは、七年前の春だ。春から秋までの半年、僕は、何を書いていたのだろう。最初の半年の〈最後の台詞〉が、一つもない。
消した覚えは、なかった。
覚えていないことが、また、少しだけ怖かった。
*
夕方、電車を乗り継いで、郊外の霊園へ行った。
半年前に、一度だけ来た場所。弔辞を読んだ日以来だった。
墓石には、あの人の名前が刻まれていた。
僕は、それを読んだ。声に出さずに。
花を替えて、手を合わせた。何を報告すればいいのか、分からなかった。名前を、なくしました。でも、まだ潜っています。あなたの赤ペンを、海の底で見ました。
終わらせ方が、まだ甘い。
あの一行を、あの人は、いつ、あの台本に書いたのだろう。
「やっぱり、来てた」
声がして、振り向いた。
霊園の通路に、背の高い女性が立っていた。短く切りそろえた髪。耳に、細い銀の何か。夢の中で見たのと、同じ形の測量器ではなかった。ただの、イヤーカフ。
けれど、顔は、同じだった。
「白波、さん」
「現実で会うのは、七年ぶりね。汐見くん」
現実の名前で呼ばれたのは、久しぶりだった。
白波さんは、花束を、墓石の前にそっと置いた。白い花。僕が持ってきたのと、同じ種類だった。
「あの人、毎年この時期に、私に花を送ってきたのよ。七年間、ずっと。カードも何もつけずに」
「どうして」
「さあ。謝っていたのかもしれないし、怒っていたのかもしれない。あの人は、大事なことほど、言葉にしなかったから」
僕の知っているあの人は、大事なことほど、紙に書く人だった。
画面に打ったものは、誰に読まれるか分からないから。
「汐見くん」
白波さんは、墓石から目を離さずに言った。
「次に潜ったら、もっと深くへ行くんでしょう」
「はい」
「なら、その前に、話しておきたいことがある。現実じゃなくて、向こうで。ここでは、言葉にすると、軽くなりすぎるから」
夕日が、墓石の名前の上に、金色を一枚かぶせていた。
帰り道、駅のホームの水たまりに、緑の光が、一瞬だけ映った。
かけなおしたグラスの隅で、浅瀬モードの数字が、音もなく、書き換わった。
【実質化率 9.6% → 9.9%】
あと、少しで、二桁になる。




