第26話 偽りの星
数字は、嘘をつかない。
浅瀬で、ウタにそう言った。今も、そう思っている。
けれど、あのとき、もう一言つけくわえた。つくのは、数字を描いた人間だ、と。
深淵層の底で、僕は、その一言のほうに、もう一度出会った。
【深度 -10,200m/深淵層・最下部の棚】
*
棚の上に、それはいた。
巨大な甲殻を持つ、海老とも蟹ともつかない生きもの。背中に、珊瑚の塔を何本も背負っている。脚の一本一本が、沈船の帆柱ほどもあった。
頭上の表示を見て、僕は、息を止めた。
【HP 9,999/9,999 MAX★】
星の印が、光っていた。
千歳さんと、同じ表示だった。
「……あたしと、同じかい」
千歳さんが、低く言った。
敵のHPは、ふつう、分母を出さない。現在の値だけ。上限で止まっているときだけ、千歳さんと同じように、「/」と最大値と、星が並ぶ。
表示できる、最大の数字。それ以上は、数えられないという印。
つまり、この生きものの本当のHPは、九千九百九十九より、もっと多い。いくつなのかは、分からない。
「逃げるかい」
千歳さんが言った。冗談の声では、なかった。
「あたしの★と同じなら、いくら突いても、数字は動かないよ。動かない数字と戦うのは、骨が折れる」
*
それでも、試した。
「398」
甲殻の継ぎ目に、銛が入った。数字が、金色に弾ける。
【HP 9,999/9,999 MAX★】
動かない。
「412」「377」「431」
【HP 9,999/9,999 MAX★】
動かない。
生きものが、脚を振りおろした。千歳さんの盾が、それを受ける。
「1,870」
重い。けれど、千歳さんの数字も、動かない。9,999のまま、正直な星の横で。
二つの9,999が、棚の上で、向かいあっていた。
僕は、数えた。
突くたびに、自分の数字を、頭の中で足していく。398。412。377。431。それから、ウタの歌の拍で、あと二十二回。
合わせて、一万を少し越えた。
表示は、まだ、9,999。
ここまでは、おかしくない。本当のHPが、二万でも、十万でも、表示は9,999のまま止まっている。止まっていることを、星が示しているのだから。
でも。
僕は、もう一度、その星を見た。
*
千歳さんの星と、並べて見た。
同じ形のはずだった。五つの角。中心から、同じ長さで伸びる腕。この海のシステムが、上限を示すために使う、一つの記号。
違った。
千歳さんの星は、角の先が、ほんの少しだけ丸い。夜の画面でも読めるように。
あの生きものの星は、角が、鋭かった。
そして、五本の腕のうち、一本だけが、わずかに長かった。
僕の目は、七年間、文字の形を見てきた。横画の終わりの丸み。払いの細さ。字間の、ほんの少しのあき。その差だけで、同じ明朝体のどれを使ったのか、言い当てられる。
この星は、システムの星ではない。
誰かが、描いたのだ。
システムの星に似せて、手で。一本だけ長い腕は、描いた人間の、癖だった。
「千歳さん」
「なんだい」
「あの星は、偽物です」
千歳さんが、兜の奥で、僕を見た。
「数字は、嘘をついていません。ただ、あそこに表示されているのは、数字じゃない。数字の形をした、絵です」
表示できる最大の数字、という意味の星を、描いて貼りつける。そうすれば、見た人は、それ以上数えるのをやめる。九千九百九十九より大きいものとは、戦っても無駄だと思う。
戦わずに、帰る。
数字が嘘をつくのではない。描いた者が、嘘をつく。
嘘の目的は、ただ一つ。数えることを、やめさせること。
*
「じゃあ、本当の数字は」
ウタが訊いた。
「見えない。だから、自分で数える」
僕は、銛を構えなおした。
表示を、見ない。かわりに、自分の数字を、足していく。突いた数。当たった数字。それから、あの生きものの動き。脚の速さ。呼吸の深さ。甲殻の、ひびの数。
前の仕事で、数字を気持ちよく見せる方法を、何百通りも試した。数字が、どう見えるかで、人がどう動くか。その逆も、知っている。
どう見えるかに頼らずに、何が起きているかを数える方法も。
「ひびが、増えてる」
僕は言った。
「二十六回目から、甲殻の継ぎ目のひびが、一本ずつ増えてる。最初は、三本。今は、九本。脚を振りおろす速さも、落ちてる。最初の一撃から、二割くらい」
「数字は、動いてないよ」
「数字は、描かれてるから。でも、ひびは描かれてない」
千歳さんが、ふっと笑った。
「あんた、海女に向いてるよ。海の中じゃ、目盛りなんか見ないからね。潮の重さと、貝の口の開き方で、全部決めるのさ」
千歳さんは、盾を前に出した。
「あたしが前に立つ。あんたは、数えな」
*
突いた。
足した。
ひびを、数えた。
三十回。三十六回。四十回。
十一本。十四本。十九本。
生きものの脚が、一本、棚の上に崩れた。
【HP 9,999/9,999 MAX★】
表示は、まだ、変わらない。偽物の星が、変わらずに、鋭く光っている。
「ルカ、こわい」
ウタが、袖をつかんだ。
「数字、ぜんぜん減らないのに」
「減ってるよ。見えないだけ」
ウタの歌が、震えながら、それでも、頂点へ上がっていく。
ひびは、二十三本になった。
甲殻の継ぎ目が、ぱっくりと、ひらいていた。その奥に、柔らかい、光る肉が見える。
僕は、そこへ、銛を投げた。
「CRITICAL 689」
金色の縁どりの数字が、弾けた。
その瞬間、頭上の表示が、割れた。
9,999の数字が、ひびの入った硝子のように砕けて、偽物の星ごと、剥がれ落ちた。
その下に、本当の数字が、一瞬だけ見えた。
【HP 0】
生きものの巨体が、ゆっくりと、珊瑚の塔ごと、ほどけていった。
僕が足していた数字は、合わせて、一万八千と少し。
それが、本当の答えだった。九千九百九十九の、二倍に届かない。数えきれないほどの大きさでは、なかった。
数えることをやめなければ、届く大きさだった。
*
【LEVEL UP!】×3 Lv 34 → Lv 37
PRS 420 → 450
棚の上に、剥がれ落ちた星の破片が、一枚だけ、残っていた。
僕は、それを拾いあげた。
一本だけ長い腕。鋭い角。手で描いた線の、わずかな震え。
知っている、と思った。
この線を描く手を、知っている。
けれど、それが誰の手だったのか、どうしても思い出せなかった。名前のところだけ、白く抜けているように。
「あたしの星は、正直だよ」
千歳さんが、僕の手の中の破片を、籠手の指で、とん、と叩いた。
「止まってるって、ちゃんと書いてある。あれは、止まってないのに、止まってるふりをしてた。そこが違う」
「はい」
「正直な数字は、こわくないんだよ。こわいのは、正直なふりをした絵のほうさ」
僕は、星の破片を、メモ帳のあいだに挟んだ。
○ 数えることをやめさせるために、星を描いた手がある。
その丸の隣に、もう一つ。
○ その手を、僕は知っている。




