第23話 泡の向こうの誰か
カゲロウは、三人で一人だ。
では、その反対は、何だろう。
一人で三人、ではない。三人で一人の裏返しは、たぶん、誰でもない一人だ。中に誰がいるのか分からない。誰がいても、同じ顔をしている。
深淵層で、僕たちは、その一人に会った。
【深度 -8,000m/深淵層・沈船の墓場】
*
海の底に、船が積み重なっていた。
大きな客船。小さな漁船。帆船。宇宙船のような、流線形の何か。どれも、どこかのゲームの中を航海していたはずの船だった。
サービスが終わって、港がなくなって、行き場をなくした船たち。それが、この深さまで沈んで、山になっていた。
その山の頂上に、誰かが座っていた。
灰色のローブ。フードを目深にかぶっている。顔の部分には、仮面が一枚。何の表情も描かれていない、まっ平らな、乳白色の仮面。
頭上に、名札が浮かんでいた。
【アワイ】
「こんばんは」
声がした。男の声とも、女の声とも、つかなかった。若くも、老いてもいない。いくつもの声を、薄く重ねたような響き。
「今夜の当番は、私です。あ、昨日の当番とは、別の私ですけど」
「当番?」
「アワイは、共有アバターなんです。決まった中の人は、いません」
アワイは、船の舳先から、ふわりと降りてきた。
「この体を使いたい人が、空いている時間に、借りて潜ります。今夜はたまたま、私。明日は、別の誰か。名前も、レベルも、装備も、ぜんぶ共有。中にいる人だけが、毎晩違う」
【アワイ Lv 50 共有アバター】
「中の人は、誰なんですか」
「秘密です。秘密にすることが、決まりなので」
アワイの仮面が、少しだけ傾いた。笑っているのかもしれなかった。
「私が誰か、言えません。でも、アワイが誰かは、言えます。アワイは、誰でもない一人です」
*
「……それ、ちょっと分かるわ」
カゲロウが言った。湊くんの声だった。時計は、【0:52】。
「今夜、ジウ、来られへんねん。夜勤、急に仮眠なしになったって。せやから僕のあと、トゥンデが早めに入る」
湊くんは、アワイを見上げた。
「僕らも、中の人が替わるやろ。三人で一人。でも、名前は三つ持っとる。ちゃんと、湊と、ジウと、トゥンデや」
「はい」
「アワイさんは、名前、一個しかないんやな。中に何人おっても」
「はい。一つだけです。誰のものでもない名前が」
湊くんは、腕を組んだ。
「ええやん、それ」
意外な声だった。
「名前に縛られへんのって、楽やと思う。僕、受験で毎日、模試の名前欄に自分の名前書くやろ。あれ書くたびに、点数と一緒に、名前まで採点されてる気がすんねん。アワイさんみたいに、誰でもなかったら、気楽やろなあ」
*
アワイは、僕たちを、船の山の奥へ案内してくれた。
「この先に、通り道があります。もっと下へ。でも、一人では通れません」
「どうして、案内してくれるんですか」
「前の当番の人から、引き継ぎがあったので。『名札のない人が来たら、道を教えてあげて』と」
名札のない人。
僕の頭上を、アワイの仮面が、まっすぐに見た。
「あなたですね」
「……前の当番の人は、誰だったんですか」
「分かりません。引き継ぎは、帳面に書いて残すだけなので」
アワイは、ローブの内側から、薄い帳面を取りだした。表紙には、何も書かれていない。ひらくと、いろんな筆跡が、一行ずつ並んでいた。
『今夜は、船の山の上で、星のかわりに数字を数えた』
『漁船の甲板で、ずっと寝てた。いい夜だった』
『灯りのない場所で、誰かを待つのは、少しこわい』
筆跡は、一行ごとに違った。それぞれの夜の、それぞれの誰か。
ページの半分あたりに、一行だけ、見覚えのある書き方があった。
『名札のない人が来たら、道を教えてあげて。終わらせ方を、知っている人だから』
右上がりではなかった。
ただ、句読点の打ち方が、ひどく丁寧だった。読点の一つ一つに、理由があるように。
僕は、その一行を、長いあいだ見つめていた。
*
通り道の入口で、カゲロウが、一拍、止まった。
時計は、【1:00】。
「――ハロー。トゥンデだよ。ラゴスは夕方の五時。早退してきた!」
トゥンデさんだった。いつもより、ずっと早い。
「ジウから連絡があってね。今夜は手薄だから、早く入ってって。で、状況は?」
僕が説明すると、トゥンデさんは、アワイの仮面をしげしげと眺めた。
「なるほど。誰でもない一人、ね」
トゥンデさんは、首を振った。
「僕は、ちょっと反対かな」
「反対?」
「湊は、気楽でいいって言ったんでしょ。でも、僕はね、名前がないのは、さびしいと思う。ラゴスの家族はみんな、僕の名前に意味を込めた。父さんの父さんが帰ってきた、って意味。名前は、誰かが僕に願ったことの証拠なんだ」
トゥンデさんは、自分の胸を叩いた。泡殻が、ぽん、と鳴った。
「アワイの中の人は、毎晩違う。それは自由かもしれない。でも、誰も、アワイのことを覚えていられない。明日のアワイは、今夜のアワイを知らないんだから」
「覚えていますよ」
アワイが言った。
「帳面に、書いて残します」
「帳面は、記録だよ。記憶じゃない」
カゲロウの泡の中で、三つの名札が、くるくると回った。湊。ジウ。トゥンデ。
「……分かれたね」
ノアが、小さく言った。
「カゲロウの三人が、違う意見になるの、初めて見た」
三人で一人。いつも、バトンを渡すように、同じ方向へ体を運んできた。けれど、名前をどう考えるかで、初めて、三人の答えが割れた。
湊くんは、名前から自由になりたい。
トゥンデさんは、名前を願いの証拠だと言う。
ジウさんは、今夜ここにいない。けれど、たぶん、帳面に写す人だ。消された言葉を、覚えているうちに書きとめる人。
僕は、どれだろう。
名前を盗まれて、【???】のまま、ここまで来た。白い人影の刷毛でさえ、僕の名札は塗れなかった。誰でもないことが、ここでは鎧になるのかもしれない、と思った。
それでも、ウタに呼ばれるたびに、僕は振り向いてきた。
*
通り道は、二つの沈船の、ちょうど隙間にあった。
客船の竜骨と、帆船の帆柱が、交差して、狭い門のようになっている。その向こうは、さらに深い闇。
「ここは、名前のある人と、名前のない人が、二人で並ばないと開きません」
アワイは言った。
「二人で、一人ぶん。名前のある側が、名前のない側の手を引く。そういう決まりです」
誰が決めたのかは、訊かなかった。この海の決まりは、いつも、誰かが昔に作ったものだから。
「私が、手を引きましょうか」
アワイが、手を差し出した。
僕は、その手を見た。
灰色の手袋。誰のものでもない手。今夜だけの、誰かの手。
「ルカ」
ウタが、僕のもう片方の手を握った。
「わたしが、引く」
「ウタ」
「わたし、名前、あるもん。ルカがくれたの」
ウタは、門の前に立った。小さな体で、まっすぐに。
門が、軋んで、開いた。
アワイは、差し出していた手を、ゆっくり下ろした。仮面の下で、何かが、少しだけ笑った気がした。
「いい引き継ぎが、書けそうです」
アワイは、帳面に何かを書きこんで、船の山へ戻っていった。
明日の夜には、別の誰かが、あの仮面をかぶる。今夜のことを、帳面で知る。
記録と、記憶。
その違いを、僕は、門の向こうの闇の中で、ずっと考えていた。




