第22話 白く塗る者
忘れることと、消されることは、違う。
似ているのは、結果だけだ。どちらも、あとに白が残る。けれど、白の手ざわりが違う。忘れられた白は、崩れて雪になる。消された白は、崩れない。塗りこめられた壁のように、なめらかで、硬い。
深淵層で、僕はその違いを、指で知った。
【深度 -7,200m/深淵層・言葉の珊瑚礁】
*
闇の底に、光る森があった。
珊瑚だった。けれど、沈都の白い庭園とも、浅瀬の翠とも違う。枝の一本一本が、文字の形をしていた。
ひらがな。カタカナ。漢字。ローマ字。見たこともない文字。それらが絡みあって、枝になり、幹になり、薄く光っている。
「言葉の、珊瑚」
ジウさんの声だった。視界の隅の時計は、【2:44】。
「誰かが言った言葉が、ここまで沈んで、育ったんでしょうか」
ジウさんは、交易帳を胸に抱いて、枝の一本に顔を近づけた。
「……これ、韓国語です。『また来週』って」
隣の枝には、『おつかれ』。その隣には、『Good game』。その奥には、『明日も、ここで』。
この海は、世界中の海底ケーブルを、海水にして育っている。
ケーブルを流れた言葉の、いちばん底に沈んだもの。誰かが、誰かに、また会うつもりで言った言葉。
そのほとんどが、今は、もう誰のところにも届かない。終わったゲームの中で交わされた、約束だから。
「きれいだね」
ノアが言った。白い炎に照らされて、枝の文字が、一つずつ影を落とした。
「来週が来なかった言葉なのに」
「来なかったから、ここに残ってるのかもしれない」
言ってから、それが沈都の論理と同じだと気づいた。終わり損ねたものは、海の底に溜まる。
*
森の奥で、音がした。
刷毛で、壁を撫でるような音。
枝の陰から、それが現れた。
人の形をしていた。けれど、顔がなかった。頭から足の先まで、真っ白な、つるりとした表面。両手の先が、平たい刷毛のように広がっている。
それは、言葉の珊瑚の枝に、手を当てた。
ひと撫で。
『また来週』の文字が、白くなった。
崩れなかった。雪にもならなかった。文字の形のまま、色だけが、硬く、なめらかに、塗りこめられた。
「……何、あれ」
ウタが、僕の後ろに隠れた。
白い人影は、一体ではなかった。森の奥から、二体、三体。刷毛の手で、言葉を一つずつ、塗りつぶしていく。
ジウさんが、交易帳を、ぎゅっと抱きしめた。
「わたしの帳面にも、ああいう白が、ありました」
街の名前を書こうとしたところ。三文字ぶんの、受けとってもらえない白。
あれは、忘れた白ではなかったのだ。
*
戦いは、奇妙だった。
白い人影は、攻撃してこない。ただ、近づいてくる。そして、僕たちの体に、刷毛の手を伸ばす。
千歳さんの盾が、それを受けた。
盾の縁に刻まれていた、灯会の紋章が、白くなった。
【千歳 HP 9,999/9,999 MAX★】
HPは、減っていない。
かわりに、盾の上の何かが、なくなった。
「数字を削るんじゃない。印を消してる」
僕は、突いた。
「344」「371」
白い表面に、数字が弾けた。人影が、少しだけ欠けた。欠けた場所から、白い粉ではなく、塗料のような、どろりとした白がこぼれた。
カゲロウの泡が、ジウさんの手から放たれる。人影の前でふくらんで、刷毛を受けとめる。
泡の表面が、白く塗られた。
泡の中に映っていた、カゲロウの名札。三つの名前が、順番に映るはずの場所。
そのうちの一つが、白くなった。
「ジウさん!」
「……大丈夫です。わたしは、ここに」
ジウさんの声は、震えていなかった。けれど、名札の表示が、一つ欠けていた。カゲロウ、白、KAGEROU。蜉蝣の二文字が映るはずの順番だけが、白く塗られていた。
「名前を、塗ってる」
理解が、背骨を降りていく。
あれは、名前を塗りつぶすものだ。言葉の、いちばん奥の、誰が誰に言ったのかという印を。
忘れられたものは、自然に白くなる。けれど、あれは、まだ覚えられているものを、塗りに来ている。
覚えている人がいるのに、なかったことにする。
*
「ウタ、下がって」
「やだ」
ウタは、僕の前に出ようとした。
「ウタは、名前が新しい。塗られたら、戻らないかもしれない」
「ルカは?」
「僕は」
僕の名札は、【???】だ。
塗るべき名前が、ない。
白い人影が、僕に手を伸ばした。刷毛の先が、頭上の名札に触れる。
何も、起きなかった。
疑問符は、疑問符のまま、そこに浮かんでいた。塗るものがないところには、白も残らない。
人影が、一瞬、止まった。顔のない顔で、僕を見た。困惑のようなものが、その白い表面を、かすかにゆがませた。
その隙に、突いた。
「CRITICAL 598」
人影が、ほどけた。白い塗料が、言葉の森の根もとにこぼれて、そこだけが、ぬめるように白く光った。
残りの人影も、ウタの歌の拍で、一体ずつ崩した。
最後の一体がほどけたとき、千歳さんの盾の紋章が、うっすらと色を取り戻した。カゲロウの名札の白い欄にも、蜉蝣の二文字が戻ってきた。
塗られた言葉の珊瑚は、戻らなかった。
*
森の外れで、休んだ。
ジウさんが、交易帳をひらいていた。几帳面な楷書で、何かを書きつけている。
「何を書いてるんですか」
「塗られた言葉です。覚えているうちに」
ジウさんは、ページを見せてくれた。
『また来週』。『おつかれ』。『明日も、ここで』。
森で、白くされた言葉の一つ一つを、ジウさんは、帳面に写していた。
「わたしの仕事は、介護です。覚えていられなくなった人の、かわりに覚えておくのも、仕事のうちで」
ジウさんは、ペンを置いた。
「忘れることは、悪いことではないんです。人は、忘れないと、生きていけない。忘れられたものは、白くなって、雪になって、ちゃんと消えていく。それは、終わり方の一つです」
ジウさんは、言葉の森を振り返った。
「でも、消されることは、違う。終わる前に、なかったことにされる。だから、ずっと白いまま、どこにも行けない」
前提が、一つ並んだ。
この街の名前は、忘れられたのではない。消されたのだ。
では、誰が。何のために。
僕は、言葉の森の根もとの、白い塗料の跡を見下ろした。なめらかで、硬い白。
沈都の看板の、三文字ぶんの白と、同じ手ざわりだった。
そして、僕の名札の疑問符を、あの手は塗れなかった。
名前がないことは、この深さでは、鎧になるのかもしれない。
それが、救いなのか、もっと悪い知らせなのか。僕には、まだ分からなかった。




