第21話 深淵層へ
街の底には、まだ底があった。
聖堂の裏手、時計塔の影が落ちるあたりで、石畳が途切れている。その先は、崖だった。沈都層の縁。琥珀の灯りが届かない、真っ暗な縦穴が、まっすぐ下へ口をあけていた。
カゲロウの泡の地図にも、そこから先は描かれていない。
「この下に、何があるんですか」
トウヤさんに訊くと、灯守の青年は、燭台の芯を切る手を止めた。
「分かりません。降りた人は、戻ってこないので」
【深度 -3,000m/沈都層・南の縁】
*
降りる、と決めたのは、僕だった。
台本の空白に入れる一行は、まだ見つからない。けれど、探す場所なら、見当がついた。この街の名前を持ち去った誰かは、上ではなく、下にいる。最初の夜に聞いた声も、偽物の唇も、いつも下から来た。
「行くなら、あたしの輪の中だよ」
千歳さんが、盾の縁を叩いた。
「ここから先は、割れたら戻れない。トウヤくんの教会のとおりさ。それでも行くかい」
「行きます」
「なら、数字を、もう一度ちゃんと見な」
千歳さんは、僕のステータスを指さした。
??? Lv 25 PRS 330
頭の中で、式を並べる。
この海の水圧は、深さに比例する。百メートルごとに、要求PRSが10。深度4,000mなら、400。
圧壊ラインは、自分のPRSの二割に、10を足したもの。330の二割は66。足して、76。
4,000mでの不足は、70。76より小さい。削られはするが、潰れはしない。
けれど、4,100mでは、不足が80になる。
「4,060m」
僕は言った。
「輪の外で、僕が潰れずにいられる、ぎりぎりの深さです。そこから先は、千歳さんの輪がないと、一秒ももたない」
「よく覚えてるね」
「体が、覚えてるので」
千歳さんは、兜の奥で、少しだけ笑った。
「あたしの輪は、要求が1,100まで。深さにして、11,000m。そこが、この海で、数字が数えられる底だよ」
一万一千メートル。現実の海で、いちばん深い場所。
零溝は、二万メートル。
その差の九千メートルを、どうやって越えるのか。誰も知らない。千歳さんも、知らない。
それでも、まずは、数えられる底まで降りる。
*
カイトくんは、縁に残ることになった。
「沈都で、深民の人たちを守ります。誰かが、前に立ってないと」
カイトくんは、盾を立てて、まっすぐに言った。
「トウヤさんと、シオネさんと、スイさん。名前、ぜんぶ覚えました」
「頼んだよ」
千歳さんが、カイトくんの兜を、籠手で軽く叩いた。
「前に立つ理由、少しは分かったかい」
「……まだです。でも、覚えてる名前が増えると、前に立つのが、怖くなくなりました」
「それで半分さ。残りの半分は、帰ってきたら教えてやる」
ミナモさんも、上に残った。
「数字が出ないところは、突けないから」
ミナモさんは、ゴーグルを額に上げて、縦穴の闇を見下ろした。
「でも、帰り道は数えとく。何メートル降りて、何メートル上がったか。誰かが数えてないと、帰ってこられないでしょう」
帰り道を数える人がいる。それだけで、闇の重さが、少しだけ変わった。
*
縦穴を、降りた。
千歳さんの輪が、光の膜になって、僕たちを包んでいる。輪の中にいるのは、僕と、ノアと、カゲロウと、ウタ。
深度計の数字が、増えていく。
3,500。
4,000。
沈都の琥珀が、頭上の小さな四角になって、やがて、消えた。
光が、なくなった。
ノアのランタンの白い炎と、千歳さんの輪の淡い光。それだけが、群青よりも暗い黒の中で、灯っていた。
【深度 -4,500m/深淵層】
【要求PRS 450/現在 330(不足 120/圧壊ライン 76)】
【水圧分担:千歳】
【圧損 −60/分】
HPのゲージが、静かに減っていく。輪の中でも、不足のぶんの半分は、僕が払う。
一分に、60。
ノアのランタンが、ふっと明るくなった。灯火。温かい光が、僕の泡殻をなでて、減ったぶんを戻していく。
「ノア、無理は」
「してないよ。これくらい」
ノアの声は、いつもどおりだった。けれど、ランタンの白い炎が、一瞬だけ、細くなったのを、僕は見た。
見て、メモ帳の丸にはしなかった。
*
「ルカ」
ウタが、輪の中で、僕の袖をつかんだ。
「くらいの、こわくない?」
「少し」
「わたしも、少し」
ウタは、ノアのランタンの白い炎を、じっと見ていた。
「でも、くらいと、歌がよく聞こえる」
そう言って、ウタは小さく、六つの音を歌った。
闇の中で、歌は、浅瀬で聞いたときより、ずっと遠くまで届いた。岩壁に当たって、少し遅れて、返ってくる。その返ってくるまでの間で、壁までの距離が分かった。
ミナモさんなら、何メートルと言うだろう。
僕は、心の中で、その数字を数えた。数えることで、闇が、少しだけ、測れるものになった。
澪さんも、この闇を降りたのだろうか、と思った。
七年かけて何かを探していた人が、こんな暗さの中で、一人で。
あの人が本当にここを降りたのかどうか、そのときの僕は、まだ知らなかった。ただ、右上がりの字の人なら、きっと、闇の深さも、句読点ひとつまで、数えながら降りたのだろうと思った。
*
深淵層の魚は、光を持たなかった。
かわりに、音を持っていた。暗闇の中で、何かが、低く鳴いている。鯨のような、鐘のような、長い音。
「来るで」
湊くんの声が、短く言った。
闇の中から、口が現れた。
顔ではなく、口だけだった。歯の並んだ、巨大な弧。体の残りは、闇に溶けて、どこまで続いているのか分からない。
突いた。
「389」「352」「410」
数字が、闇の中で、金色の泡になって弾ける。それだけが、この深さで、目に見える光だった。
それが、灯りになっている。
この海では、数えることが、照らすことなのだ。
「CRITICAL 612」
ウタの歌の頂点で、口が、闇の中へほどけていった。
【LEVEL UP!】×5 Lv 25 → Lv 30
PRS 330 → 380
五つの金色が、真っ暗な水の中で、星座のように並んで、消えた。
圧壊ラインは、380の二割に10を足して、86。
式は、正直だった。強くなれば、許される不足も、少しだけ大きくなる。けれど、深さはそれよりずっと速く、要求を積みあげていく。
【深度 -6,000m】
【要求PRS 600/現在 380(不足 220/圧壊ライン 86)】
輪がなければ、とうに潰れている深さだった。
僕は、千歳さんの背中を見た。重い鎧。光の輪。七十四歳の海女が、夢の中で、この深さを、まるで浜を歩くように進んでいく。
「千歳さん」
「なんだい」
「1,100を超えたら、どうなるんですか」
千歳さんは、振り向かなかった。
「数えられなくなる。それだけさ」
「数えられないと」
「この海では、数えられないもんは、ないことになる。圧も、HPも、名前も。あたしは、そう聞いてるよ」
ないことになる。
頭上の【???】を、僕は、見上げる気になれなかった。
ノアのランタンの白い炎だけが、僕の名札の空白を、ぼんやりと照らしていた。




