第20話 十一時十五分の手前で
次の夜、鎖は二本に増えていた。
尖塔の珊瑚が、鎖の重みでぎしぎしと鳴っている。頭上の群青の奥で、浮力の泡が、いくつも鈍く光っていた。百二十個。ジンさんの言ったとおりの数だった。
数字は、嘘をつかない。百二十個をそろえてきたのなら、今夜は本当に上げるつもりなのだ。
【深度 -3,000m/沈都層・中央広場】
*
広場には、灯会の全員がいた。
千歳さんと、カイトくん。ミナモさんは、少し離れた屋根の上で、ゴーグルの目盛りを合わせている。ノアは舞台の袖で、ランタンを下げていた。カゲロウが、交易帳を閉じた。ジウさんの声だった。
「では、始めましょうか」
ウタは、演台の前に立っていた。台本は、まだ、伏せたままそこにある。
トウヤさんも、シオネさんも、スイさんも、広場の縁に来ていた。深民は泡殻を持たない。戦いには、加われない。それでも、来ていた。
時計塔の鎖の根もとに、ジンさんが立っていた。銛を一本、肩に担いで。
「来ると思った」
「来ないと思ってた?」
「いや。来てほしかった、かもな」
ジンさんは、銛を構えた。
「悪いけど、仕事だ。邪魔するなら、突く」
【ジン HP 4,210】
*
ジンさんの銛は、重かった。
一投ごとに、水を押しのける音がする。投げた銛は、背中の鎖に繋がっていて、刺さるたびに巻き取られて戻ってくる。
「312」
千歳さんの盾が、正面で受けた。盾の表に、赤い数字が弾ける。
千歳さんの盾が、続けて二度鳴った。
「297」「330」
数字が、ゆらいでいる。
僕は、それを確かめて、少しだけ安心した。この人は、写しではない。本物の誰かが、どこかの夜に眠って、この銛を投げている。
「カイト、左を」
「はい!」
カイトくんが、ウタの前に滑りこんだ。盾を立てる。ジンさんの二投目が、その表に当たって、金属の悲鳴をあげた。
「284」
カイトくんの体が、半歩、後ろへ押された。けれど、倒れなかった。
「ウタさん、下がってて!」
「ウタでいい」
「ウタ!」
カイトくんが叫ぶ。守った人の名前を、彼はまた一つ覚えた。
ミナモさんの銛が、屋根の上から一直線に飛んだ。ゴーグルの目盛りどおりの距離。ジンさんの肩の留め具に、正確に。
「418」
カゲロウの泡が、ジンさんの視界の前でふくらんだ。
僕は、その陰から突いた。
「251」「276」
【ジン HP 2,863】
「やるな」
ジンさんが、笑った。
「でもさ、これ、勝っても意味ないぜ。俺を割っても、上の母船は残る。泡も、鎖も。明日、別の誰かが来るだけだ」
その通りだった。
戦いは、問いを解決しない。問いを、先に延ばすだけだ。
*
「もういいわ、ジン」
舞台の上から、声がした。
白波レイさんが、演台の横に立っていた。いつのまに降りてきたのか、誰も気づかなかった。
「レイさん、まだ半分も――」
「いいの」
レイさんは、演台の上の台本を、手に取らずに見下ろしていた。
「ねえ。昨日、ジンが訊いたことに、答えて」
僕に言っていた。
「止まっているものと、終わっているものの違い。あなたは、答えられなかった。放送の原稿のことも。でも、まずはこっちから。今夜は――」
僕は、銛を下ろした。
広場の縁を見た。トウヤさん。シオネさん。スイさん。ウタ。
戦いに加われないのに、ここに来ている人たち。
前提を、一つずつ置く。
「終わりは、残される側のためにある」
声に出すと、それは、七年かけて考えてきたことの、いちばん短い形になった。
「終わる世界のためじゃない。見送った人が、明日も生きていけるように、終わりはある。ちゃんと終わったものだけが、ちゃんと思い出になれる」
「それで」
「この時計塔を浅瀬に上げたら、それは、上げた人たちのための続きになる。浅瀬で、新しいお客さんが、古い時計を見て喜ぶ。それは、悪いことじゃない」
レイさんは、黙って聞いていた。
「でも、それは、この街に残された人たちのための終わりじゃない。灯りの芯を切りつづけている人。歌のなかほどを、毎晩歌っている人。白い珊瑚の声を聞いている人。来なかった客を、七秒ごとに迎えつづけた子」
ウタが、僕を見ていた。
「この人たちには、まだ、終わりが来ていない。塔を上げても、ここに残る。終わりのないまま、塔のない広場で、待ちつづける」
論理は、そこで一つの結論に着いた。
「止まっているものは、持ち去っても、終わらない。終わらせなければ、終わらない」
広場が、静かになった。
ジンさんが、銛の穂先を、石畳に下ろしていた。
*
レイさんは、長いあいだ、僕を見ていた。
それから、端末をひらいて、何かを打ちこんだ。
頭上で、鎖が、鳴った。
二本の鎖が、尖塔の珊瑚から、ゆっくりとほどけていく。浮力の泡が、ひとつ、またひとつ、群青の上へ遠ざかっていった。
「レイさん!」
「作業は、中止。会社には、私から言う」
中止。
その言葉を、レイさんは、ひどく慎重に口にした。何度も使ったことのある言葉を、初めて使う人のように。
「勘違いしないで。あなたに負けたわけじゃない。あなたの論理が、正しいかどうかも、まだ分からない」
レイさんは、演台の台本を見下ろした。
「ただ、あなたの論理には、続きがある。終わらせなければ、終わらない。なら、誰が終わらせるの」
答えは、分かっていた。分かっていて、言えなかった。
レイさんは、台本を、指先で、僕のほうへ少しだけずらした。
「書けるのは、あなただけ」
レイさんは、それだけ言って、背を向けた。
鎖の残りを伝って、上へ。ジンさんが、肩をすくめて、そのあとに続いた。
「次は、仕事抜きで会おうぜ」
ジンさんは、去り際に、一度だけ振り向いた。
「あんたの数字、ゆらいでて、よかった」
*
広場に、灯会の全員と、深民の人たちが残った。
演台の上の台本は、僕のほうへ、指一本ぶんだけ、近づいていた。
最後のページを、僕は開かなかった。開けば、空白が見える。見れば、何かを書かなければならなくなる。
まだ、書けなかった。
何を書けばいいのか、分からないからではない。誰のために書くのか、まだ全部は分かっていないからだ。
ノアが、舞台の袖から、僕の隣に来た。
「ルカくん、顔」
「うん」
「今の顔は、楽しそうじゃないけど、逃げてない顔」
ノアは、ランタンを掲げた。白い炎が、時計塔の文字盤を照らした。
視界の隅の時計は、【3:31】。
秒針が、一秒進んで、一秒戻る。
進んで、戻る。
そのとき、秒針が、止まった。
進みも、戻りもせずに。
十一時十四分の、最後の一秒のところで。
そして、一度だけ、深く震えた。
鐘楼の奥で、錆びた歯車が、何かを思い出そうとするように、低く鳴った。広場の打ち上げ筒が、いっせいに、かすかに応えた。
ウタが、息をのんだ。
トウヤさんの燭台の炎が、背を伸ばした。シオネさんが、六つの音を、口の中だけで歌った。スイさんの白い庭園の方角で、珊瑚の雪が、一瞬だけ止んだ。
それから、秒針は、また一秒戻った。
十一時十四分。
十五分には、まだ届かない。
けれど、届こうとしたのだ。一度だけ。
僕は、台本の上に、そっと手を置いた。開かずに。
この街の、最後の夜の、続き。
それを書く人間は、もう、決まっていた。




