第19話 引き揚げ屋
広場の時計塔に、鎖がかかっていた。
太い、黒い鎖だった。尖塔の珊瑚をかき分けて、鐘楼の柱に何重にも巻きつけてある。鎖の先は、頭上の群青へまっすぐ伸びて、見えなくなっていた。
上に、何かがいる。
【深度 -3,000m/沈都層・中央広場】
*
「下がって」
千歳さんが、盾を前に出した。カイトくんも、反射的に、その横に並んだ。
鎖を伝って、誰かが降りてきた。
黒い潜水服。背中に、銛を三本。腕に、見たことのない紋章の腕章をつけている。錨の形を、四角い枠で囲んだ印。
【ジン Lv 58 投銛手】
〈所属:ディープサルベージ〉
「お、先客か」
ジンさんは、石畳に降り立つと、首を鳴らした。
「灯会の人たちだろ。悪いね、ここ、今日から作業区域なんだ」
「作業?」
「引き揚げだよ。この時計塔、まるごと上に持っていく」
ジンさんは、親指で鎖を示した。
「上に、うちの母船がいる。浮力の泡を百二十個、吊ってきた。この深さの建物一つなら、ひと晩で浅瀬まで上がる」
「上げて、どうするんですか」
「売るんだよ」
あっけらかんとした声だった。
「終わったゲームの建物は、この海の底に、いくらでも沈んでる。誰のものでもないから、拾ったもんの勝ちだ。古い時計塔は人気でね。浅瀬の観光地に建てると、客が集まる」
「この街は、終わってない」
僕の声は、思ったより強く出た。
「止まってるだけだ」
ジンさんは、一瞬だけ、僕の頭上の【???】を見た。それから、肩をすくめた。
「止まってるのと、終わってるのと、何が違うんだ。誰も住んでない。誰も来ない。灯りだけついてる。ほっといたら、そのうち白くなって、雪になって消える。それなら、今のうちに上げてやったほうが、時計塔だって幸せだろ」
*
「ジン。話は、私がする」
鎖の上から、もう一人、降りてきた。
背の高い女性だった。白に近い灰色の潜水服。髪は短く切りそろえていて、耳に、細い銀の測量器をかけている。片手に持った板状の端末には、時計塔の図面が、青い線で浮かんでいた。
【白波レイ Lv 63 建築士】
〈所属:ディープサルベージ 主任建築家〉
レイさんは、まず広場を見渡した。舞台。打ち上げ筒。演台。横断幕。それから、時計塔の針を。
十一時十四分。
その目の動き方を、僕は知っていた。
設計者の目だった。
図面と実物を、一つずつ照らし合わせていく目。ずれがないか。崩れているところはないか。そして、自分が引いた線が、まだ正しく立っているか。
「よく、もってる」
レイさんは、小さく言った。
「七年も。思ったより、ずっと」
「この街を、知ってるんですか」
レイさんは、初めて僕を見た。
頭上の【???】を見て、それから、僕の顔を見た。図面を確かめるときと、同じ目で。
「知ってる。この時計塔を引いたのは、私だから」
広場の空気が、変わった。
「主任建築家、と書いてあるでしょう。七年前も、同じ肩書きだった。会社は違うけれど」
レイさんは、端末の図面を、僕のほうへ向けた。
青い線の、時計塔。その足もとに、小さな文字で、設計者の名前が並んでいる。
白波レイ。
その下に、もう一つの名前があった。
白く、抜けていた。
三文字ぶんではない。四文字ぶん。
その横に、役職だけが読めた。
〈最終夜イベント 演出〉
僕の指が、勝手に動いて、その白をなぞろうとした。
*
「あなたが、ここに来るとは思わなかった」
レイさんは、端末を下ろした。
「いえ、違うわね。来るかもしれないとは、思っていた。あの人が、あなたに何か送ったと聞いたから」
「あの人」
「あなたの先生よ」
澪さん。
名前は、レイさんの口から出なかった。出なかったことで、かえって、はっきりした。
「先生と、一緒に仕事をしていたんですか」
「この街の最後の夜を、三人で作っていた。私が建物を。あの人が、物語を。それから、入ったばかりの子が一人、書体と、文字の間を」
レイさんは、僕の顔から目を離さなかった。
「覚えていないのね」
「……書体のことは、覚えています」
「それだけ?」
「それだけです」
レイさんは、長い息をついた。泡殻の膜が、少しだけ震えた。
「そう。じゃあ、あなたの中でも、この街の名前は白いのね」
ジンさんが、退屈そうに鎖を揺らした。
「レイさん、昔話はいいから。作業、始めていい?」
「待って」
レイさんは、時計塔を見上げた。
秒針が、一秒進んで、一秒戻る。
「この塔は、上げる。それは、決めたこと。資産として回収する。会社の判断で、私の判断でもある」
「どうして」
僕は訊いた。
「あなたが引いた塔でしょう。どうして、売れるんですか」
「私が引いたから、よ」
レイさんの声は、少しも揺れなかった。
「終わらなかった世界を、このまま海の底に置いておくのは、設計者の怠慢よ。誰も来ない街に、灯りだけをつけて、待たせつづける。それは、優しさじゃない。私は、この街に、別の使い道をあげたい。浅瀬で、人が集まる場所として。それも、一つの続きでしょう」
論理は、通っていた。
通っていることが、苦しかった。
僕は、反論を探した。止まっているものと、終わっているものは違う。この街は、まだ待っている。誰かが、最後の台詞を書くのを。
けれど、それを言うなら、問われるのは、僕のほうだった。
では、お前が書くのか、と。
七年間、世界の終わらせ方を作ってきた。閉じていく世界に、最後の夜を設計してきた。それなのに、この街の最後の夜を、僕は覚えてさえいない。
終わりの設計者として、僕は、彼女に反論する資格を持っていなかった。
*
ウタが、僕の前に出た。
小さな体で、両手を広げる。#07の台座の上で、何千回も繰り返した、あの角度で。
「ようこそ」
ウタは言った。
七秒の型ではなかった。首をかしげずに、まっすぐ、レイさんを見て。
「ようこそ。でも、これは持っていかないで」
レイさんの目が、初めて揺れた。
「……案内役の、七番」
「ウタ」
「ウタ」
レイさんは、その名前を繰り返した。シオネさんがしたのと、同じように。
それから、ジンさんのほうを向いた。
「作業は、明日の夜に延ばす」
「えっ、なんで」
「浮力の泡の点検。一つ、怪しいのがあった」
「点検は済んだって、さっき――」
「あった」
ジンさんは、何か言いかけて、やめた。それから、僕たちのほうを見て、ため息をついた。
「明日の夜、また来るよ。邪魔するなら、そのときは本気で突く」
ジンさんは、鎖を伝って、上へ戻っていった。
レイさんは、まだ残っていた。
端末の図面を閉じる前に、もう一度、あの白く抜けた四文字の欄を見た。
「ねえ」
レイさんは、背を向けたまま言った。
「あの夜、放送の原稿を書いたのが、誰だったか。あなたは、覚えている?」
僕は、答えられなかった。
レイさんは、それ以上は訊かずに、鎖を上っていった。
時計塔の秒針が、一秒進んで、一秒戻った。
鎖は、まだ、尖塔に巻きついたままだった。




